泣いて、恋をする。

「いえ。俺はどうやら、物凄く頼りになる友人らしいですから」
「物凄くなんて言った?」
「そこは別にいいじゃないですか」
 どうでもいいことを言いながら歩く彼の横顔が、少し前より穏やかな気がした。十六年間抱えてきたものから解放されたのだ。彼の気が楽になったのならよかった。役に立てたのかは分からないが、その場にいられてよかったと思う。
「嵯峨さんて実は優しいんですね」
 川が見える小さな公園みたいな場所に辿り着いて、誰もいないステンレスのベンチを占領した。ベンチの周りには角の取れた石が沢山転がっていて、太陽の光を反射している。
「俺が優しくなかったことなんてないでしょう? でも一応、七輝がそう思った理由を聞いておこうか」
 なんて彼らしい言い方だとおかしくなるが、大仕事を終えた彼に、ご褒美代わりにちゃんと伝えてやることにする。
「普段、絵を描くとき以外は左利きのフリをして左手で過ごしているでしょう? それなのに、さっきのカフェではずっと右手を使っていた。それは田上さんのためでしょう? 言葉で誤魔化すことは簡単でも、咄嗟の行動ってなかなか難しいのに、ずっと完治した右手を演じ続けていて凄いなって思ったんです。完治した右手を演じるって、おかしな言葉かもしれないですけど」
「流石だね」
 せっかく彼を褒めたのに、褒め返されてしまった。
「そもそも俺が左利きだと言って誰にも疑われたことはなかったのに、七輝はなんでもお見通し」
 鈴木が物を作るときに手を見続けていたから。それは彼を不機嫌にさせてしまいそうだから黙っておく。
「戻ろうか。小さな旅館だけど、一応温泉があるから入ってみよう」
「はい」
 それほど遠くに来た訳ではないのに、七輝たちが暮らす街より涼しくて過ごしやすい場所だった。まだまだ暑い筈の季節を、苦に思うことなく帰っていく。遅いツクツクボウシが夏を惜しむように鳴いているが、泣き声に感化されて哀しくなるようなこともない。多分、今年の秋と冬はそんなに悪くない。そう思えてしまう。
 旅館だが部屋で食事をするスタイルではなく、一階の食事処で好きな時間に食べていいと言われたので、少し早めの夕食にした。牛肉のパイ包み焼きから始まって、鯛と椎茸の酒蒸しに、さつまいもと茄子の焼き物。炊き込みご飯に具沢山のお味噌汁まで出てきて、一週間前に急遽予約したとは思えない豪華な料理を堪能する
「この白葱が絶品です。鮑をあげますから、葱を譲ってください」
「いや、鮑なんてメインみたいなものでしょう。人にあげてどうするの」
「俺は葱が気に入ったんです」
 どうしても葱が欲しい訳ではないが、そんな我が侭を言う時間が楽しかった。いつまでもじゃれ合っていたら、気づいた仲居に「よろしければ椀物だけおかわりをお持ちしましょうか?」と言われて、頬を染める羽目になる。「いい大人が葱に執着するからだよ」とからかわれたが、何を言われても悪い気はしない。ああ、自分は今この時間を楽しんでいるのだと実感する。
「おいしかった」
「だね。七輝にお気に召していただけてよかった」
 丸十のケーキと洋梨のコンポートまで完食して、「またどうぞ」と暖簾を開けてくれた仲居に見送られて食事処を後にした。広い階段を使って客室のある二階に上がりかけて、その前にふと思いついて嵯峨に声を掛ける。
「売店で飲みものを買ってきます。先に上がっていてください。何か希望はありますか?」
「ありがと。お茶ならなんでもいい」
「承知しました」
 深夜は売店が閉まるから、ペットボトルを二本ずつとお菓子をいくつか買って戻れば、彼が窓際でスケッチブックに向かっていた。低い籐の椅子に座って窓の外を眺めている。やはり絵を描くときは右手だ。ぴくんと跳ねることがあると言っていたが、七輝が見ていてそれが出たことはない。本人には満足できない部分があるのだろうが、七輝はただ、彼が絵を描く様子が好きだと思う。窓の外はもう暗い。だが彼には七輝とは違う世界が見えているのかもしれない。
 襖を開けても気づかないほど集中しているから、邪魔するのは悪い気がした。そっと着替えだけを持ってお風呂に向かうことにする。期待していなかったのに大浴場には三種のお湯とサウナがあって、然程混んでいないお湯を堪能した。内装や窓の位置もよくて、ガラス窓から控えめにライトアップされた紅葉の木々が見える。冬に雪景色の中で入るのもよさそうだが、また彼と来ることがあるだろうか。湯船から窓の外の景色を眺めてそう思う。
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