泣いて、恋をする。
まさか昨日の今日でこんなことが起こるなんて。それも仕事で関わる人間なんて信じられなかった。だが充悟なんて名前がどこにでもあるとは思わない。
「すみません……!」
思わず名前を繰り返していたことに気づいて、慌てて詫びた。名前が珍しいことは言われ慣れているのか、彼はふふと楽しげに笑うだけだ。あ、今のは多分作り笑いではないと、そんなことを思ってしまう。
「読めないでしょう? 名前が書いてあるもの全部にふりがなを振ってくれって思いますよ。周知のために、湯野さんには充悟さんと呼んでもらおうかな」
「そんな……」
冗談だと分かっているのに、らしくもなく上手く返せなかった。鼓動が速まる。嫌なリズムではない。心惹かれた絵の作者に会えた偶然に、自分の周りで止まっていた時間が一度に動き出したような感覚だ。
「昨日話した副部長になる予定の男だ。ちょっと事情があって、予定外に本社に来ることになったから、とりあえず湯野に紹介しておこうと思って」
そういえばそんなことを言っていた。来月からと言っていたから、まだ先の話だと思ってピンとこなかった。
「今日はとりあえず顔出しだけで、来週からコンプラ研修なんかで顔を出すことになるから」
根本の話に納得する。同じ会社でも本社と支店では別のルールがあるし、ビル毎に違う設備のルールもあるから、異動前の研修はよくあることだ。事前に館内に慣れて業務以外の研修も終えて、改めて来月頭に社員に挨拶をするという流れだ。それならバイトの七輝に先に紹介というのも納得だ。
「ということで、館内設備の案内なんかはこの湯野が担当するから」
「お忙しいところすみませんが、よろしくお願いします、湯野七輝 さん」
ネームプレートを読んだのだろう。七輝もフルネームで呼ばれて頭を下げられる。少し心配していたが、どうやらバイトの案内は受けないとか、雑務はやりたくないとごねるような器の小さな男ではないらしい。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「ふふ。根本部長にびっくりするほど綺麗だと言われて期待していたんですが、期待以上でした」
「え?」
ふわりと微笑まれて言われた言葉の意味が分からない。
「おい。それは言わない約束だろ?」
「そうでした。嬉しくてつい」
七輝が戸惑ううちに二人のやりとりは終わりになって、一体何が綺麗なのか聞きそびれてしまう。
「悪いけど、ロッカーと休憩室の場所だけ教えておいてくれるか? そのあとは一人で帰して大丈夫だから」
割と雑な扱いで言って根本が仕事に戻ってしまったから、ロッカーと休憩室に案内して、これから支店に戻るという彼をエントランスまで送ることになった。
「突然来てすみませんでした。お仕事の手を止めてしまって」
帰り際にそう言ってくれた彼に、ふと気持ちが和む。決してバイトの仕事を軽んじたりしない。たった三十分一緒にいただけで、この男はいい上司になるだろうと分かってしまう。
「いえ。急ぎの仕事はなかったので」
「よかった。では一緒に働けるのを楽しみにしています」
「俺も」
応えてから、ここは私もと応えるべきだったなと反省した。普段こんなミスはやらかさないのに、自分は一体何を動揺しているのだろう。
「お気をつけて」
名誉挽回。エントランス前できちんと頭を下げて見送れば、顔を上げたタイミングで振り向いた彼が手を振ってくれた。どうしていいか分からなくて、彼の姿が見えなくなるまでぼんやり眺めてしまう。
「……お茶目なのか?」
見えなくなったところで思わず零れる。明るくて人当たりのいい男。だが『未完の希望』の作者というのがアンバランスな気がして、七輝の興味を引いてしまう。
長く一緒に働いていれば聞けるチャンスもあるだろうか。そう、ただ静かに過ごしていただけの日々に、ふと未来が現れる。とにかく久しぶりに心に一つ灯りが点いたような、そんな気分だった。
「すみません……!」
思わず名前を繰り返していたことに気づいて、慌てて詫びた。名前が珍しいことは言われ慣れているのか、彼はふふと楽しげに笑うだけだ。あ、今のは多分作り笑いではないと、そんなことを思ってしまう。
「読めないでしょう? 名前が書いてあるもの全部にふりがなを振ってくれって思いますよ。周知のために、湯野さんには充悟さんと呼んでもらおうかな」
「そんな……」
冗談だと分かっているのに、らしくもなく上手く返せなかった。鼓動が速まる。嫌なリズムではない。心惹かれた絵の作者に会えた偶然に、自分の周りで止まっていた時間が一度に動き出したような感覚だ。
「昨日話した副部長になる予定の男だ。ちょっと事情があって、予定外に本社に来ることになったから、とりあえず湯野に紹介しておこうと思って」
そういえばそんなことを言っていた。来月からと言っていたから、まだ先の話だと思ってピンとこなかった。
「今日はとりあえず顔出しだけで、来週からコンプラ研修なんかで顔を出すことになるから」
根本の話に納得する。同じ会社でも本社と支店では別のルールがあるし、ビル毎に違う設備のルールもあるから、異動前の研修はよくあることだ。事前に館内に慣れて業務以外の研修も終えて、改めて来月頭に社員に挨拶をするという流れだ。それならバイトの七輝に先に紹介というのも納得だ。
「ということで、館内設備の案内なんかはこの湯野が担当するから」
「お忙しいところすみませんが、よろしくお願いします、
ネームプレートを読んだのだろう。七輝もフルネームで呼ばれて頭を下げられる。少し心配していたが、どうやらバイトの案内は受けないとか、雑務はやりたくないとごねるような器の小さな男ではないらしい。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「ふふ。根本部長にびっくりするほど綺麗だと言われて期待していたんですが、期待以上でした」
「え?」
ふわりと微笑まれて言われた言葉の意味が分からない。
「おい。それは言わない約束だろ?」
「そうでした。嬉しくてつい」
七輝が戸惑ううちに二人のやりとりは終わりになって、一体何が綺麗なのか聞きそびれてしまう。
「悪いけど、ロッカーと休憩室の場所だけ教えておいてくれるか? そのあとは一人で帰して大丈夫だから」
割と雑な扱いで言って根本が仕事に戻ってしまったから、ロッカーと休憩室に案内して、これから支店に戻るという彼をエントランスまで送ることになった。
「突然来てすみませんでした。お仕事の手を止めてしまって」
帰り際にそう言ってくれた彼に、ふと気持ちが和む。決してバイトの仕事を軽んじたりしない。たった三十分一緒にいただけで、この男はいい上司になるだろうと分かってしまう。
「いえ。急ぎの仕事はなかったので」
「よかった。では一緒に働けるのを楽しみにしています」
「俺も」
応えてから、ここは私もと応えるべきだったなと反省した。普段こんなミスはやらかさないのに、自分は一体何を動揺しているのだろう。
「お気をつけて」
名誉挽回。エントランス前できちんと頭を下げて見送れば、顔を上げたタイミングで振り向いた彼が手を振ってくれた。どうしていいか分からなくて、彼の姿が見えなくなるまでぼんやり眺めてしまう。
「……お茶目なのか?」
見えなくなったところで思わず零れる。明るくて人当たりのいい男。だが『未完の希望』の作者というのがアンバランスな気がして、七輝の興味を引いてしまう。
長く一緒に働いていれば聞けるチャンスもあるだろうか。そう、ただ静かに過ごしていただけの日々に、ふと未来が現れる。とにかく久しぶりに心に一つ灯りが点いたような、そんな気分だった。
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