泣いて、恋をする。

「俺……?」
 耐えきれず声を発したところで、彼が傍にやってきた。
「どう? 上手いでしょう?」
 人を勝手に描いておきながら悪びれる様子もない。彼の顔が見られなくてまたページを捲る。また七輝の絵が現れる。笑っている顔や仕事をしている姿。食事中や眠っている姿まである。そしてスケッチブックの中間から、パラパラ漫画のように七輝の表情と仕種が少しずつ動き出す。妖しげな目で、何故か絵の中の七輝が衣服に手を掛ける。両腕でシャツを捲り上げようとする自分を見たところで、耐えきれなくなってスケッチブックを閉じた。絵は文句なしに上手い。顔形も身体つきも七輝そのものだ。だが自分はこんな風に相手を誘うようなことはしない。こんな顔、できる訳がない。いや、果たしてそうだろうか。実は彼の方が七輝の本質を見抜いているのではないか。
「驚いた?」
「とても」
 スケッチブックを戻しながら短く返した。
「白状すると、七輝がそのスケッチブックを手にしたのは偶然じゃない。初めから見てもらうつもりで一番前に置いていたんだ。本当は昨日のうちに見てもらって、絵と同じようなムードになる予定だったんだけど」
「ご期待に添えずすみません」
「ううん、気にしないで。七輝の寝顔を見て満足したから」
 何故こっちが許しをもらう流れになっているのだろう。
「俺が怒って軽蔑するかもしれないとは思わなかったんですか?」
「半々かな。軽蔑されたら取り戻すまでだし」
「……なんですか、それ」
「それだけ本気だってことだから、心配しないで」
「心配って」
 なんと答えていいか分からないうちに身体を反転させられて、彼が目を合わせてくる。
「どうやら俺は言葉よりずっと七輝に参っているみたい」
「ちょっと、嵯峨さん」
 意外に強い力で両肩を押さえられて逃げられない。七輝の困惑を余所に、「これじゃちょっと無責任か」と、一人で勝手に反省した彼が言い直す。
「恋人になってほしいということは、当然七輝をそういう対象に見ているってことだから。いずれその絵に描いてあるような顔を見せてくれればいいって思う」
 絵に描いているような顔。彼を誘って、彼を求める顔。想像して鼓動が速くなる。
「……とても難しい相談だと思います」
「可能性はゼロじゃないでしょう?」
「そう、でしょうけど」
 平静を装いながら、煩いくらいに胸が騒ぐ。どうか彼に聞こえてしまいませんように。どうか頬が白いままでありますようにと念じている。ゼロではない。それは昨日のうちに自覚してしまった。
「俺がいずれ七輝を抱きたいと思っていることだけ覚えておいて」
 ぱっと七輝の身体を解放して、キッチンスペースに戻る彼をただ見つめていた。
「逃げないんだね。密室で自分を抱きたいと言っている男と二人きりだよ。怖くないの?」
「逃げても追ってくるんでしょう?」
「分かっているじゃない」
 トーストを乗せた皿を手に戻ってきた彼は軽い調子に戻っている。気を遣ってくれているのだろうが、七輝もそれほど子どもではなかった。鼓動が落ち着けば、逃げる必要などないのだと気づいてしまう。
「昨日は散々情けないところを見られて、こうして面倒を見てもらっているんですから」
 彼がまっすぐだから、自分も正直に話そうと思う。
「昨日、迷惑料代わりに襲われるんじゃないかと思いました。別にそれならそれでいいって思ったから」
「弱った人間に手を出すような男に見える?」
「見えなくもない」
「酷いな」
 彼が飲みものの準備をしてくれたから、コップを受け取りに立ち上がる。
「でも、よかった。触れられて嫌だと思うような嫌悪はないんだ」
「ある訳ないじゃないですか」
 あるならこうして傍にいない。初めて会ったときから、彼に嫌悪感を抱いたことはないのだ。
「恋人のことがなければ、案外簡単に好きになっていたかもしれない」
「へぇ」
 意趣返しのつもりだったのに、割と攻撃力が高かったらしい。驚いた彼がすぐに不敵な笑みを見せる。
「思っていたより状況はよかった訳だ」
 そう言うと、キッチンカウンターに置いてあったスマートフォンを操作し始めた。
「うーん、この辺かな。……あ、取れた」
「何が?」
「温泉旅館の予約」
 熱心に画面を追っていると思えば、彼が訳の分からないことを言い出す。
「今週末、二人で旅行に行かない?」
「旅行?」
「うん。費用は全部俺が出す。七輝はついてきて楽しんでいてくれればいいから」
「いや、どうして突然」
 一瞬、七輝を抱くための旅行なのかと思った。だがどうやらそうではない。「それは当日のお楽しみ」と言う彼が、何か吹っ切れたような顔をしている。
「七輝のお陰で漸く心が決まった」
 よく分からないが、そう言われて断ることはできなかった。
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