泣いて、恋をする。
聞かれて首を振るが酔っていた。全身がふわふわして、テーブルに身を預けてしまう。
「おっと、ほんとに酔っちゃった? じゃあ、せめてソファーに横になって。その方が身体が楽だから」
さっき抱き上げて運ぶこともできると言った彼が、本気で七輝の身体を持ち上げてソファーに横にしてくれた。エアコンを弱くして、別の部屋から持ってきた薄い毛布で覆ってくれる。
「……何から何まですみません」
「いや、いいけど。ちゃんとベッドで寝てもらう予定だったんだけどな」
予定外にやってきた部下がそんなおこがましいことはできない。ソファーを貸してもらえるだけでありがたい。というより、一人の部屋に帰って落ち込む筈だった自分を、こうして泊めてくれることに感謝している。
「体調は悪くない?」
「はい」
「じゃあ、ちょっと寝ていて。目が覚めたときにすぐに食べられるように何か買ってくるよ。ばたばたしていて食べられなかったでしょう? 何がいい?」
そう言って離れていこうとするから、思わずその腕を掴んで止めた。
「七輝?」
ソファーの前に膝をついて心配そうに覗き込んでくる彼がどこまでも紳士で、胸にもどかしさが湧く。迷惑料代わりに襲われても仕方ないことをしている。それなのにそんなことは頭にないという様子の彼が大人すぎて、逆に思い切り我が侭を言ってみたくなる。
「傍にいてください」
酔っていることになっているから、我が侭をそのまま口にした。
「せっかくだから嵯峨さんの話が聞きたい」
「俺の?」
瞬いた彼が柔らかい顔に戻って七輝の手に触れてくれる。
「辛くなければ、怪我をして絵を諦めた頃の話が聞きたい」
「それは前に話したと思うよ」
「全部ではないでしょう? 全部解決しているなら、『未完の希望』なんて描かない」
美術のことなど分からないくせに生意気を言った。だがやはり知りたい。何故『未完』なのか。何故少年はシュートを打っていないのか。若くして仕事で結果を出すような彼が何に悩んでいるのか。七輝はだいぶ情けないところまで白状した。だから今度は彼のことを話してほしい。
「つまらない話だよ」
「構いません」
即答すれば、彼が笑って、七輝の手に触れたまま座り直す。
「俺は多分、今でも相手を苦しめているんだ」
言葉を選ぶように、彼は話し出した。手が跳ね上がって上手く絵が描けないことに悩んでいると思ったが、彼が話すのは別の話だ。
「俺は美大に行くつもりで、高三から美大専門の予備校に通っていたんだ」
「美大専門の予備校……」
七輝に実技試験があるような大学のことは分からない。だが以前鈴木に、有名な美大に入るためには、その大学に合わせたデッサンの訓練が必要だと聞いたことがある。
「高校ではずっと絵を褒められてきたけど、予備校には才能の塊みたいな人間が沢山いて、彼らの作品を見るたびに井の中の蛙だったことを思い知らされた。正直、予備校でこれで、美大でやっていけるのかと不安になったりもした」
だが担任も学年主任も、校長までもが嵯峨の絵の才能に期待していて、自信がなくなったとは言えなかったという。
「そんなとき、体育で久しぶりにバスケをやった。三年は選択制で体育はお遊びみたいな感じだから、ゲームで勝とうなんて思っていなくて。みんなでわいわい楽しくやっていただけだったけどね」
コートで仲のいいクラスメイトと雑談していて、そこに突然ボールが飛んできたという。
「反射的に手を出して、ダメな角度で直撃したんだ」
嵯峨はわざと軽い言い方をしたが、結果的に靱帯を切って、手術しても後遺症が残った。手術直後の右手は今よりずっと不自由だったらしい。
「もう筆を使うのが難しいから普通の大学に行きます。そう言った俺に誰もが同情してくれた。本当は絵をやりたいのに、怪我のせいでできなくなった可哀想な少年。そんな腫れもの扱いの中で結構な偏差値の大学に合格して、よく頑張ったとみんなが褒めてくれた。腐ることなく新しい道に進んだ立派な少年。今度はそう言われた。本音は安堵していたのに。美術の才能の中で争わなくてよくなったことにほっとしていたのに、誰にもそんなことは言えなかった」
「嵯峨さん……」
だってまだ高校生じゃないか。怪我をしたのは事実なのだから、そこまで背負う必要があるだろうか。そう思う七輝に彼の話は続いていく。
「俺を怪我させたクラスメイトは、全部正直に話してくれた。親と一緒に俺の家まで謝りに来て、『成績もいいのに絵の才能もある嵯峨くんに嫉妬した。だから突き指の一つもすればいいって、そんな気持ちでボールを投げました。本当にすみませんでした』と言って頭を下げた。そうされて、俺は本心では困っていたんだ」
「おっと、ほんとに酔っちゃった? じゃあ、せめてソファーに横になって。その方が身体が楽だから」
さっき抱き上げて運ぶこともできると言った彼が、本気で七輝の身体を持ち上げてソファーに横にしてくれた。エアコンを弱くして、別の部屋から持ってきた薄い毛布で覆ってくれる。
「……何から何まですみません」
「いや、いいけど。ちゃんとベッドで寝てもらう予定だったんだけどな」
予定外にやってきた部下がそんなおこがましいことはできない。ソファーを貸してもらえるだけでありがたい。というより、一人の部屋に帰って落ち込む筈だった自分を、こうして泊めてくれることに感謝している。
「体調は悪くない?」
「はい」
「じゃあ、ちょっと寝ていて。目が覚めたときにすぐに食べられるように何か買ってくるよ。ばたばたしていて食べられなかったでしょう? 何がいい?」
そう言って離れていこうとするから、思わずその腕を掴んで止めた。
「七輝?」
ソファーの前に膝をついて心配そうに覗き込んでくる彼がどこまでも紳士で、胸にもどかしさが湧く。迷惑料代わりに襲われても仕方ないことをしている。それなのにそんなことは頭にないという様子の彼が大人すぎて、逆に思い切り我が侭を言ってみたくなる。
「傍にいてください」
酔っていることになっているから、我が侭をそのまま口にした。
「せっかくだから嵯峨さんの話が聞きたい」
「俺の?」
瞬いた彼が柔らかい顔に戻って七輝の手に触れてくれる。
「辛くなければ、怪我をして絵を諦めた頃の話が聞きたい」
「それは前に話したと思うよ」
「全部ではないでしょう? 全部解決しているなら、『未完の希望』なんて描かない」
美術のことなど分からないくせに生意気を言った。だがやはり知りたい。何故『未完』なのか。何故少年はシュートを打っていないのか。若くして仕事で結果を出すような彼が何に悩んでいるのか。七輝はだいぶ情けないところまで白状した。だから今度は彼のことを話してほしい。
「つまらない話だよ」
「構いません」
即答すれば、彼が笑って、七輝の手に触れたまま座り直す。
「俺は多分、今でも相手を苦しめているんだ」
言葉を選ぶように、彼は話し出した。手が跳ね上がって上手く絵が描けないことに悩んでいると思ったが、彼が話すのは別の話だ。
「俺は美大に行くつもりで、高三から美大専門の予備校に通っていたんだ」
「美大専門の予備校……」
七輝に実技試験があるような大学のことは分からない。だが以前鈴木に、有名な美大に入るためには、その大学に合わせたデッサンの訓練が必要だと聞いたことがある。
「高校ではずっと絵を褒められてきたけど、予備校には才能の塊みたいな人間が沢山いて、彼らの作品を見るたびに井の中の蛙だったことを思い知らされた。正直、予備校でこれで、美大でやっていけるのかと不安になったりもした」
だが担任も学年主任も、校長までもが嵯峨の絵の才能に期待していて、自信がなくなったとは言えなかったという。
「そんなとき、体育で久しぶりにバスケをやった。三年は選択制で体育はお遊びみたいな感じだから、ゲームで勝とうなんて思っていなくて。みんなでわいわい楽しくやっていただけだったけどね」
コートで仲のいいクラスメイトと雑談していて、そこに突然ボールが飛んできたという。
「反射的に手を出して、ダメな角度で直撃したんだ」
嵯峨はわざと軽い言い方をしたが、結果的に靱帯を切って、手術しても後遺症が残った。手術直後の右手は今よりずっと不自由だったらしい。
「もう筆を使うのが難しいから普通の大学に行きます。そう言った俺に誰もが同情してくれた。本当は絵をやりたいのに、怪我のせいでできなくなった可哀想な少年。そんな腫れもの扱いの中で結構な偏差値の大学に合格して、よく頑張ったとみんなが褒めてくれた。腐ることなく新しい道に進んだ立派な少年。今度はそう言われた。本音は安堵していたのに。美術の才能の中で争わなくてよくなったことにほっとしていたのに、誰にもそんなことは言えなかった」
「嵯峨さん……」
だってまだ高校生じゃないか。怪我をしたのは事実なのだから、そこまで背負う必要があるだろうか。そう思う七輝に彼の話は続いていく。
「俺を怪我させたクラスメイトは、全部正直に話してくれた。親と一緒に俺の家まで謝りに来て、『成績もいいのに絵の才能もある嵯峨くんに嫉妬した。だから突き指の一つもすればいいって、そんな気持ちでボールを投げました。本当にすみませんでした』と言って頭を下げた。そうされて、俺は本心では困っていたんだ」