泣いて、恋をする。

 ひんやりとした壁に背を寄せれば、隣で同じようにした彼が聞いてくる。
「やっぱり、まだ体力的に残業はきつかった?」
 言われて首を振る。違う。体力の問題ではない。
「……残業と花と雨ですかね」
 なぞなぞみたいな言い方をしてしまった。流石の嵯峨も、片眉を上げて七輝の答えを待つだけだ。
「恋人が不満に思っていた残業をして、彼のお姉さんに痛めつけられた日と同じ雨で、今日の理事会の会場前には大きな生け花が飾ってあった。彼が品種改良をしたいと言って、俺がちゃんと話を聞いてやれなかった花です。馬鹿みたいだけど、そんな些細なことで俺のメンタルは崩れるんです」
 呆れますよね。そんな風に言えば、彼が首を振った。「色々気づかなくてごめん」。逆にそう言って、何か考えるようにしばらく目を閉じる。
「身体が大丈夫なら帰ろう。送っていく」
 空気がシンとなったところで言われて頷いた。彼に背中を支えられてエントランスに向かう。エントランスにも飾ってあった花を見なくて済むように、彼が時々頭まですっぽり腕で包んでくれる。十三センチの身長差。今更そんなことを実感する。
 一通り台風騒動は落ち着いたのか、建物の外はひっそりとしていた。彼が呼んだタクシーがすぐにやってきて二人で乗り込む。まだ風はあるが雨はやんでいる。これなら電車も復旧していると思うのに、彼が家まで送ると言って聞かないから、大人しく座席に背を預けることになる。
「大事になると出てきづらいかと思って、総務の社員たちには湯野さんはもう帰したと言っておいたんだ。根本部長も上手く誤魔化しておいたけど、彼には本当のことを言っておいた方がよかったかな?」
「いえ。助かりました」
 根本には心配を掛け通しだ。これ以上迷惑を掛けたくないから、嵯峨の機転に感謝だ。そう伝えれば、彼が七輝の頭を抱き寄せて、肩に凭せ掛けるようにしてくれる。
「そんなに迷惑だとか思わない方がいいよ。俺も根本部長も、七輝を大事だと思うから構うんだし」
 運転手の前だが、これくらいなら酔った客の戯れで済むだろう。そう思うから、されるまま身を預ける。
「総務の社員たちもみんな七輝に感謝していたよ。契約外の残業なのに、理事たちの機嫌を悪くしないように動いてくれて、備品の場所も全部頭に入っていて助かったって。弱っているのにその実力でしょう? 俺は凄いんだって、もっと自信を持っていいと思うよ」
「……光栄です」
 一定の間隔で肩を優しく叩かれて、その心地よさに目を閉じた。張り詰めていたものが解けて、ああ、この数時間でだいぶ疲れていたのだと自覚する。
「着くまで寝ていていいよ」
 言われて素直に従った。寝顔を見られるのが恥ずかしいとか、行き先が違うからどうするのかとか、難しいことは考えられずに、心地いい揺れに身を任せる。
 浅い眠りの中でまた夢を見た。美術品の販売店で『七星花の女神』と『未完の希望』を並べられて困っている。目の前のスタッフに「一人一点しか買えません」と言われて七輝は悩む。さぁ、どちらか選んでください、お客様──。
「七輝」
 店員の声が嵯峨の声に変わって、そこで目が覚めた。
「到着。またすぐ寝ていいから、一旦降りよう」
 窓の外を見れば見慣れない場所にいた。とりあえず運転手の迷惑になってはいけないから、彼について車を降りる。
「着替えもタオルもあるから、今日は俺の部屋に泊まって」
 寝起きの思考が追いつく前に腕を引かれて、エントランスを潜っていた。十階建てのマンションの七階。部屋に行くような関係ではない。ここで帰った方がいい。そう思うが、身体と思考が上手く機能しないうちにエレベーターで連れていかれてしまう。
「ここ。たいした部屋じゃないけど」
 言葉と裏腹に、彼の部屋は分譲マンションの広告のように綺麗だった。壁や作り付けの家具が黒で統一されていて、モデルルームのようだ。
「ふふ。寝惚けている?」
 ぼんやり見回していれば、苦笑した彼に腕を引かれてリビングのソファーに誘導された。ハンガーを渡されて、とりあえず上着を脱いで掛けさせてもらう。
「アルコールは別にダメじゃないんでしょう? もう寝るだけだし、少し飲んでみる?」
「いえ。お構いなく」
 対面キッチンの奥の、冷蔵庫の前から言われて首を振った。七輝の言葉に構わず、彼はチューハイの缶をテーブルに置いてしまう。それほど度数の高くない白サワーだ。
「嵯峨さんはもっと強いお酒を飲むかと思っていました」
「俺はそうでも、今の七輝にはちょっと危ないかなと思って。それで我慢して」
 そう言われて、引き寄せられるように手を伸ばす。素直にプルタブを引いて口にすれば、喉と胸元がカッと熱くなった。鈴木が亡くなってからアルコールを摂るのは初めてだ。お酒で楽になりたいと思うこともあったが、それすら彼に対する冒涜のように思えたのだ。考えてみれば、弱った自分を痛めつけられるだけ痛めつけてきた。それで得られたものがあったのだろうか。今は考えたくなくて、一度に残りの酒を呷る。
「そんな弱いお酒で酔った?」
34/43ページ
スキ