泣いて、恋をする。

 ギャラリーの開放は夜七時までだから、十分前に像の前を離れた。
「また来るよ、龍」
 そんな台詞を声にして、名残惜しい気持ちを抱えて出口に向かう。
 だがいつもは足早に出てしまうだけの場所で、その日はふと意識を引かれた。顔を上げれば、出口に近い壁に前回来たときにはなかった絵が飾られている。ここの生徒の作品だろうか。十号キャンバスの作品は然程大きなものではないのに、見たことのない構図に、つい正面から向き合ってしまう。
「……鉛筆?」
 作品の八割方が未着色で、右上の一部だけ油絵の具で着色された不思議な絵だった。よく見れば未着色に見える部分にも白い油絵具が塗られている。バスケットのシュートを打つ瞬間の少年。シュートを打っていいかどうか迷っているようにも見える。爽やかなスポーツのワンシーンなのに、その中に苦悩と葛藤が見えるようで、目が離せなくなってしまう。
 恋人が彫刻家で絵も描いていたというだけで、七輝に絵の知識などなかった。それでもその絵の不思議な魅力に惹かれて、ロープパーテーション越しに見つめ続ける。そこで閉館五分前を知らせる音楽が流れ始めた。
 いけない、帰らなければ。そう焦って、何故か反射的に絵の下のネームプレートに目を遣った。『
未完の希望
みかんのきぼう
 嵯峨充悟』。嵯峨という男性が描いたものらしい。それならゴールに向かっている少年は彼自身なのだろうか。
嵯峨さが、みつご……?」
 下の名前の読み方が分からなかったが、タイトルと作者名を記憶してエントランスのドアを潜った。それほど暑がりではないが、冷房の効いた室内から出ればやはり暑い。今日は比較的涼しいと思っていたが違った。冷蔵庫から出された野菜の気分で駅まで歩いていく。
 ふと顔を上げれば、駅と反対方向の空の一部に、夏の威力を示すような明るさが残っていた。まるで、こっちにおいで、ここだけはまだ明るいからと七輝を誘っているようだ。向かえばきっと、辿り着いた瞬間真っ暗になって絶望させる。
「……残念。家に帰るよ」
 正気は失っていないので、ちゃんと駅に帰ることにした。歩きながらさっき見た絵のことを思う。未完の希望。明るいのか暗いのか分からないタイトルだ。元々、画家の心の機微を読めるほど絵に詳しい訳ではない。好きなのは恋人の作品だけで、美術全体に興味がある訳でもない。それなのに、バスケットの少年の絵が頭から離れない。
 次来たときにまたじっくり見よう。恋人がいなくなってから、そんな風に新しいものに興味を持つのは初めての気がした。ずっと悩むためだけに続けていたようなギャラリー通いに、小さな別の感情が生まれる。もちろんお目当ては鈴木の彫刻だが、一つくらいおまけがあってもいい。いつも混んでいる帰りの電車もその日は空いていて、最近では珍しいほど穏やかな気持ちで帰宅する。
 あまり頻繁に通うのも気味悪がられるから、次は土曜にしようと決めた。頻繁に作品が売れるギャラリーではない。あの絵もしばらく飾られたままだろう。スタッフの手が空いていれば、『充悟』の読み方を聞いてみようか。翌日の仕事中にそんなことを思う。
 前向きな予定は久しぶりだ。他人からすれば笑ってしまうほど些細なものでも、七輝にとっては大きな意味を持つ。けれどその予定が、まさかの理由でいらなくなってしまうとは思わなかった。
「ちょうどよかった。湯野、ちょっと来てくれるか」
 宅配便を部署毎のロッカーに入れ終わって、郵便部屋を出たところで根本に手招きされた。急いで彼のデスクに向かえば、彼の傍に背の高い男が立っている。意志の強そうな眉、高い鼻梁、形のいい唇。一言で言えば『いい男』だが、一筋縄ではいかないこともすぐに分かる。穏やかに微笑んでいるが、職場の人間に表情を読まれたりしないという、高度な防御壁を感じる。社員より一段下のバイト相手なら尚更だ。
「今話した、直雇用のバイトの湯野だ」
 根本が先に七輝を紹介すれば、相手が身体ごときちんと顔を向けてきた。中途入社の新人という感じではない。新しい役席か役席研修の人間。何故根本自らバイトの自分に紹介するのだろう。
「初めまして。嵯峨充悟さがじゅうごといいます」
 そこで七輝の思考がぴたりとやむ。
「じゅうご……?」
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