泣いて、恋をする。
「お気持ちだけありがたくいただきます。彼のデスクやパソコンの準備は俺の仕事になりそうですが」
「ああ。彼も総務は初めてらしいから、しばらくお前について雑務をしてもらうことになりそうでな」
「バイトと一緒に雑務?」
それは彼のプライド的にどうだろうと思う。だが総務の社員たちも忙しいし、雑務を教えている暇はないというところだろう。それなら、どんな人間が世話係でも気にしないような器の大きい人間だとありがたい。
「雑務は総務の基本だ。なんでもやらせていいからな」
「それはどんな人間かに依ると思いますけど。とにかく社員さんに確認をしながら受け入れの準備を進めます」
「ああ。副部長に昇進予定といってもまだ三六なんだ。お前とも仲よくやれると思うぞ」
それには驚いた。自分と十も離れていない。
「随分と大抜擢ですね」
思わず聞いてしまえば、七輝が興味を持ったことが嬉しいというように、根本が右の口角を上げる。
「例の派遣社員の事件のときに、話が大きくならないように収束させたのが彼なんだ。手柄を買われたってことだな」
ああ、なるほどと思う。噂だけは聞いていたが、それなら会社側も恩があるから納得だ。
「おっと、五時だ。お疲れさん。復帰の件はいつでもいい返事を待っているから」
「俺は今の立場が気に入っていますから」
そう言って、最後だけはきちんと頭を下げて会議室を出る。
「お先に失礼します」
「お疲れさま」
デスクに戻って社員たちに挨拶をすれば、みな手を止めて返してくれた。気のいい根本の影響もあるのか、この部署には嫌な人間が一人もいない。
定時が五時十分の社員より十分だけ早いバイトの定時で上がって、エレベーターで一階に下りた。今日はそれほど暑くないから寄り道をしようと決めている。定時が早いからまだそれほど混んでいない路線で、家に帰るのとは逆方向の電車に乗った。三駅乗って降りた先で向かうのは、星野美術スクールという大手美術教室だ。東京校だけでなく、全国の至るところに教室がある絵画と彫刻の学校。この不況下でたいしたものだと思う。
五階建てのビル丸々スクールという景気のいい建物を入ると、迷わず一階のギャラリーに向かった。スクールの講師や生徒の作品が公開されていて、ガラスケース越しに一般客も自由に鑑賞できるようになっている。七輝が見るのは一番右奥に飾ってある彫刻だ。
『七星花の女神 鈴木龍 』
そんなプレートがついたブロンズ像は、七輝の恋人だった男性が作ったものだ。鈴木は制作の傍らここで講師をしていた。ふんわり風に舞うヴェールを被った女性が腕一杯の花束を抱いた、ごくありふれたデザイン。いつも奇抜なものばかり作っていた彼が最後だけ普通のものを作って、そのままいなくなった。その事実が未だに受け入れられなくて、こうしてここに通っている。
幸いこのギャラリーは誰でも出入り自由で、心行くまで何時間でも見ていていいことになっていた。高性能の防犯カメラが随時作動していて、盗難の心配がないらしい。各作品の前には小さなプライスカードが出ていて密かに販売もしている。売れれば何割かはスクールの利益になるから、じっくり眺めて、気に入ればぜひご購入をということだろう。そのスタンスに甘えて、七輝は女神のブロンズ像を眺め続ける。
龍。心でそっと名前を呼べば、また癒えることのない胸の痛みに襲われる。
どうして俺に何も言わずにいなくなった? 女神像に何十、何百とぶつけた問いに、今日も答えが返ることはない。
ずっとそこに立っていれば邪魔になるので、時々少し離れたベンチに移動した。視野が広くなっても見つめるのは彼の女神像だけだ。いっそ買ってしまえばいいとも思うが、その女神像には百五十万の値がついている。どんなにいい出来の作品でも、五万から十万でしか売らなかった彼が、これも最後だけおかしな値段をつけた。もしかしたら七輝へのメッセージだったのではないか。ずっと前から苦しんでいて、サインを出していたのではないか。七輝が気づけば救えたのではないか。今日もその思いに苛まれる。百五十万くらい払えない額ではないが、買って持ち帰れば更に苦しむことになりそうな気がした。だからといって、知らない誰かが買って、この像がなくなればいいのかといえばそれも違う。他の誰にも買ってほしくない。でも自分も今は買えない。そんな葛藤を抱えて、今日も七輝は女神像を見つめ続ける。
「ああ。彼も総務は初めてらしいから、しばらくお前について雑務をしてもらうことになりそうでな」
「バイトと一緒に雑務?」
それは彼のプライド的にどうだろうと思う。だが総務の社員たちも忙しいし、雑務を教えている暇はないというところだろう。それなら、どんな人間が世話係でも気にしないような器の大きい人間だとありがたい。
「雑務は総務の基本だ。なんでもやらせていいからな」
「それはどんな人間かに依ると思いますけど。とにかく社員さんに確認をしながら受け入れの準備を進めます」
「ああ。副部長に昇進予定といってもまだ三六なんだ。お前とも仲よくやれると思うぞ」
それには驚いた。自分と十も離れていない。
「随分と大抜擢ですね」
思わず聞いてしまえば、七輝が興味を持ったことが嬉しいというように、根本が右の口角を上げる。
「例の派遣社員の事件のときに、話が大きくならないように収束させたのが彼なんだ。手柄を買われたってことだな」
ああ、なるほどと思う。噂だけは聞いていたが、それなら会社側も恩があるから納得だ。
「おっと、五時だ。お疲れさん。復帰の件はいつでもいい返事を待っているから」
「俺は今の立場が気に入っていますから」
そう言って、最後だけはきちんと頭を下げて会議室を出る。
「お先に失礼します」
「お疲れさま」
デスクに戻って社員たちに挨拶をすれば、みな手を止めて返してくれた。気のいい根本の影響もあるのか、この部署には嫌な人間が一人もいない。
定時が五時十分の社員より十分だけ早いバイトの定時で上がって、エレベーターで一階に下りた。今日はそれほど暑くないから寄り道をしようと決めている。定時が早いからまだそれほど混んでいない路線で、家に帰るのとは逆方向の電車に乗った。三駅乗って降りた先で向かうのは、星野美術スクールという大手美術教室だ。東京校だけでなく、全国の至るところに教室がある絵画と彫刻の学校。この不況下でたいしたものだと思う。
五階建てのビル丸々スクールという景気のいい建物を入ると、迷わず一階のギャラリーに向かった。スクールの講師や生徒の作品が公開されていて、ガラスケース越しに一般客も自由に鑑賞できるようになっている。七輝が見るのは一番右奥に飾ってある彫刻だ。
『
そんなプレートがついたブロンズ像は、七輝の恋人だった男性が作ったものだ。鈴木は制作の傍らここで講師をしていた。ふんわり風に舞うヴェールを被った女性が腕一杯の花束を抱いた、ごくありふれたデザイン。いつも奇抜なものばかり作っていた彼が最後だけ普通のものを作って、そのままいなくなった。その事実が未だに受け入れられなくて、こうしてここに通っている。
幸いこのギャラリーは誰でも出入り自由で、心行くまで何時間でも見ていていいことになっていた。高性能の防犯カメラが随時作動していて、盗難の心配がないらしい。各作品の前には小さなプライスカードが出ていて密かに販売もしている。売れれば何割かはスクールの利益になるから、じっくり眺めて、気に入ればぜひご購入をということだろう。そのスタンスに甘えて、七輝は女神のブロンズ像を眺め続ける。
龍。心でそっと名前を呼べば、また癒えることのない胸の痛みに襲われる。
どうして俺に何も言わずにいなくなった? 女神像に何十、何百とぶつけた問いに、今日も答えが返ることはない。
ずっとそこに立っていれば邪魔になるので、時々少し離れたベンチに移動した。視野が広くなっても見つめるのは彼の女神像だけだ。いっそ買ってしまえばいいとも思うが、その女神像には百五十万の値がついている。どんなにいい出来の作品でも、五万から十万でしか売らなかった彼が、これも最後だけおかしな値段をつけた。もしかしたら七輝へのメッセージだったのではないか。ずっと前から苦しんでいて、サインを出していたのではないか。七輝が気づけば救えたのではないか。今日もその思いに苛まれる。百五十万くらい払えない額ではないが、買って持ち帰れば更に苦しむことになりそうな気がした。だからといって、知らない誰かが買って、この像がなくなればいいのかといえばそれも違う。他の誰にも買ってほしくない。でも自分も今は買えない。そんな葛藤を抱えて、今日も七輝は女神像を見つめ続ける。