たからもの、一つだけ。

 気がつけばそんなことを言っていた。
「俺で役に立つことがあるんですか?」
「ああ。本当に世間一般の感覚で答えてくれればいい」
 よかった。機嫌は直ったらしいと安堵しながら注意深く言葉を探す。気がつけば車は彼のマンション付近まで来ていた。先に彼を送り届けて帰るつもりだから、もうすぐ別れることになる。それを思えば、少し大胆になる。
「結婚しているのに、もしその相手以上に好きな人間が現れたら、お前ならどうする?」
 問えば一瞬気まずい沈黙が降りた。空気が動いて、こちらを見上げる彼にじっと見つめられてしまう。少しは酔っている筈なのに、まるで宇美原の真意を読むような目を向けられれば、柄にもなく慌ててしまう。
「仕事で離婚の相談が多いんだ。けど俺には結婚の経験すらないからなかなか難しい。悪い。答えたくないなら別に」
「いえ」
 きっぱりと言って、彼は前を向いた。住宅街に進んでいくフロントガラス越しの景色を見ながら、酔っているとは思えないきちんとした声が返ってくる。
「俺はルール違反はしません。不誠実なことはしない。例え相手がルール違反をしていたとしても」
 なんだ、と思った。彼はやはり自分の妻がしていることを知っている。知っていて何も言わずに結婚生活を続けている。それは何故か。とりあえず金が目的ではないようだが、なんだか知れば知るほど謎が深まる男だと思う。
「宇美原さんは独身なんですね。モテそうだから、意外です」
 おかしな空気を和ませるように、彼がふわりと笑った。
「モテるのは事実だが、結婚は必要性を感じないからな」
「ふふ。俺もモテるのは事実って言ってみたいな」
 彼が笑えば宇美原の策略だらけの心も解れる。これは彼の能力なのだろう。無駄な争いを避けて、誰とでも上手くやっていく能力。そんな小細工を忘れるほど好きになったから、今の妻と結婚したのだろうか。だとしたら、今の彼女との関係はなんなのだろうと、また分からなくなる。
「ごちそうさまでした。家まで送ってもらってすみません」
「いや、いいんだ。普通の会社員と話してみたかったから」
 また、人によってはカチンとされてしまいそうなことを言って後悔した。どうやら今夜酔っているのは自分の方らしい。いつもはしないようなミスを連発している。
「俺でよければまたお付き合いします。今度はご馳走させてください」
 怒ることもなく、降りる直前に彼の方から言ってくれた。
「ああ。また連絡する」
 そう言えば、彼がまたふわりと笑ってマンションへと帰っていく。あんな風に感じのいい男がまだこの世の中にいたのだなと、走り出した車の中でそんな年寄りじみたことを思う。
 純粋な会社員を大人の遊びに引き込んでやろうという気持ちは消えていた。その代わり随分と複雑な環境にいる男のようだから、全部調べて、彼がどんな人間なのかを知ってみたい。特に夫婦関係には謎が多くて、知らずにはいられない気になってしまう。
「涼本矢名、か」
 今度は木川に何をねだられるだろうと考えて、気がつけば小さく笑っていた。
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