たからもの、一つだけ。

 女性ではないから多少強引に話を進めても問題ない。そう思ったが、彼は宇美原の真意を探るような顔を見せた。返す言葉に迷う様子で眉を下げる。
「そんなたいしたことをした訳でもないし」
「食事をするのもたいしたことではないだろ?」
「でも、ここのホテルのレストランなんて気後れしちゃいそうで」
「それなら近場でいい店を探す。毎日一人で食事をしていて寂しくもなるんだ。人助けと思って付き合ってくれ」
 そんな狡い台詞を告げれば、彼がやれやれと言う風に笑った。だが嫌がっている顔ではないとなんとなく分かる。
「実は俺も今夜は誰かと食事をしたい気分だったんです。妻が外出するので。今夜だと急すぎますか?」
「いや、好都合だ。俺の知っているレストランでいいか? 予約を入れておく」
「はい。お任せします」
「じゃあ、連絡先を聞いてもいいか? ああ、そうだ。俺は宇美原紀人という」
 聞けば彼は躊躇うことなくポケットから携帯を取り出した。そういう主義なのか、メッセージアプリではなく、携帯番号を表示させてくれる。
「涼本矢名といます。これが俺の番号なんですけど、一度掛けましょうか?」
「いや、記憶した。仕事が終わった頃掛ける」
 仕事に戻る時間があるだろうから長くは引き止められないと思っての台詞だったが、彼はきょとんとして、それからとても楽しいことを聞いたように笑った。
「流石、弁護士さん。一度見たものはすぐに覚えてしまうんですね」
「たいしたことはない」
「あ、もしかして、少し照れました?」
 遊んでやるつもりの男に笑われて、その想定外の状況に柄にもなく言葉を失った。だが不思議と嫌な気持ちはない。
「六時でいいか?」
「六時半だとありがたいです」
「分かった。楽しみにしている」
 俺も、と返した彼が、ビルの中に戻っていく。その背中を見送って車に戻りながら、今日は暑いけれど、湿度が低くて意外に過ごしやすいと気づいた。日本の夏にも、時々こんな日があるからやっていられる。
 週末は仕事が入っていないから、今日は飲んでもいいだろう。それなら一度マンションに車を置きに戻って、夕方タクシーで戻ってくればいい。いや、その前に事務所に戻って彼に関する追加情報がないか木川に聞いてくるのがいいか。
 気分がよくて彼にサンドウィッチとコーヒーの昼食を買って帰れば、無言で奇妙なものを見るような目を向けられてしまった。
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