たからもの、一つだけ。

 木川は十万円の最新モニター以上にいい仕事をしてくれた。
 あの日出会った彼の名は涼本矢名すずもとやな。若く見えるがもう二九歳で、大手の銀行のコールセンターで総務をしている。銀行員ではなく、グループ企業のオペレーターを派遣する会社の社員で、スピリアーホテルビルのオフィスは出向先だという。
性格は穏やかで仕事は正確。行員である出向先の上司からも、随分と頼りにされているらしい。
 そんな細々としたことをわざと先に語って、木川は爆弾を二つ落としてきた。
寿々本佑矢すずもとゆうやの実の弟で、妻は御簾グループの会長令嬢、御簾今日花みすきょうかだ」
「……なんだと?」
 流石の宇美原も声を上げてしまう。
 寿々本佑矢というのは昼の帯番組を持つ人気MCだ。寿々本が芸名で、本名の涼本と同じ読み方で使っているらしい。それはまぁ、ない話ではない。
「妻が誰だと?」
「だから、御簾グループ会長の娘だよ。あ、今は御簾じゃなくて涼本今日花だね。婿養子じゃなくて、ちゃんとその女が涼本姓になったみたいだ。どうやら涼本矢名は妻の家の会社の仕事にはノータッチらしい」
 そう言って、木川はまたキーボードを打ち始める。どうやら彼が退屈しない依頼対象だったのだろう。一つ報酬で、彼はまだ調べてくれるらしい。
「随分と面倒な男に興味を持ったみたいだね。おかしなことに関わると、この事務所も危なくなるかもよ」
 珍しく忠告するようなことを言う彼に、文句を言うつもりはなかった。ごく平凡な男だと思っていた男が、どうやらそうではなかったらしい。一応探偵でもある宇美原だ。そこまで興味深い情報を、中途半端な状態で放っておくことなどできはしない。
「調べられるだけ調べてくれ。どうしてそんな女と結婚することになったのか、その辺りの内面は難しいと思うが」
「見縊るなよ。今はパソコンで調べられないことはない」
 頼もしい発言に口角が上がる。
「上手くいったら、新しいマウスでも買ってやるよ。最新のレーザー式が欲しいと言っていただろ?」
 その言葉に満足したらしい彼が、返事もせずにキーを打ち続ける。
 そうして初めて会った日からちょうど一週間後に、宇美原はもう一度スピリアーホテルビルを訪れた。
 初めて会ったあのベンチは彼が昼によく行く定食屋からの帰り道だと知って、同じ場所で待とうと決める。涼本は大抵一時から一時間の休憩に出ると聞いて、待つのは覚悟で早めに向かった。だがその日はベンチで若い女性が昼食を広げていて、仕方なく不審にならない程度に敷地内をうろつく。
 探偵になりたての頃は興味本位で張り込みのようなこともしたが、最近はそんな面倒な仕事には手を出していない。こんな暑い中に一時間もいることすら珍しいというのに、一体自分は何をしているのだろう。
 木川に調べてもらっておきながら次第におかしくなってきて、メタセコイアの木に身体を寄せる。その瞬間だった。ちらりと見ただけで分かって、一度外した視線をもう一度向ける。通りの方から、彼が敷地を囲む細いコンクリートの通路を歩いてきていた。気づいた途端に早足で向かう。
「また会ったな」
 偶然を装いそう言った。前を塞ぐようにして声を掛ければ、顔を上げた彼が驚きに瞬く。だがすぐに宇美原のことを思い出したらしい。眉を下げて笑ってくれる。
「お怪我は大丈夫でしたか?」
 不躾に声を掛けた男にそんな台詞を返すとは、やはりどうしようもないお人よしだ。
「大丈夫だ。たいした怪我ではなかった」
「今日も来たということは、このビルにはお仕事で?」
 ありがたいことに彼の方が話を続けてくれた。得体の知れない男が少しは気になるのか、それともそれがマナーだと思っているのか。どちらにせよ会釈だけで去られるよりずっとやりやすい。
「ああ。ここに入っている会社の一つで担当弁護士をしているんだ」
「弁護士さん。それは凄い」
 彼は素直に褒めてくれた。世間で言われるほど立派な職業でないと分かっていても、彼のような人間に言われれば嬉しい。会社の担当などしていないが、宇美原は今でも普通に弁護士の仕事ができるから、これくらいの嘘は許される筈だ。
「あんたに話があった」
 目的は世間話ではないからストレートに言った。
「仕事の関係でレストランのギフトカードというものを貰ったんだ。よければこの間の礼に、上の階のレストランにでも行かないか? そっちの都合に合わせるから」
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