たからもの、一つだけ。

 ピンポーンと玄関のチャイムが鳴って、微かに身体を震わせる。
 もう半年以上経つというのに、相変わらず望まぬ相手が令状を持って入ってくるのではないかと思えて、その音は苦手なままだ。
「なんか、このチャイム少し音が古いよね。メロディのに替えるか、もうチャイム外しちゃおうか」
 涼本は宇美原の恐怖心にわざと気づかないフリをしてくれる。相変わらずできた嫁だ。
 あれから狙い通り御簾今日花は病死で処理されたらしく、目立った騒ぎは起きなかった。木川の情報によれば、彼女を持て余していた父親と兄が早々に葬儀と後始末をしてしまったという。病死だろうと殺人だろうと、彼らはもうこれ以上彼女について考えたくないのだろう。関わっていた頃にはとんでもない女だと思ったが、親族はもっと大変な目に遭っていた。自業自得だが、家族に死を喜ばれる存在というのは少し気の毒な気もした。
 素知らぬ顔で生きていこうと決めていたが、四月に一度、架空の人物から宇美原の口座に一千万が振り込まれた。彼女を葬り去ってくれて感謝するということなのか、これで何もかも黙っているようにということなのか、分からないが、返す方法もないのでありがたく使うことにしている。お前がしたことは知っているという脅しの可能性もあるが、とにかく黙っていればいいのだろう。自分の人生のためにも、当然そうするつもりでいる。
「きっと木川さんだよ。この間一緒に鍋をしようって言っていたでしょう? 今日、時間が空いたら行くかもって言っていたんだ」
「時間が空いたらって、あいつはいつも暇だろ? てかいつの間に連絡先を交換したんだよ?」
「この間プリンを持ってきてくれたでしょう? おいしかったからお店のホームページを教えてほしくて交換したんだ。ちょっと待ってて」
 そう言って、涼本が楽しげに玄関に向かう。
 新社会人や学生の引越しが落ち着いた頃、二人で元いた場所に戻ってきた。涼本は最後にいた田舎がそれなりに気に入っていたようだが、雪が見たくないと本音を零せば宇美原の希望を受け入れてくれた。ほとんど放っておいていた部屋にプロの掃除を入れて、もう一度そこで涼本との生活が始まる。
 仕事は徐々に再開させて、今は知り合いの企業の顧問弁護士のようなことをしていた。普通の弁護士事務所に頼めないような取引も目にするが、上手く犯罪にしないように調整してやっている。その企業のためというのもあるが、自分が犯罪に関わるのを避けるためだ。これから先どうなるか分からないが、なるべく警察とは関わらない生活をしようと思っている。
「紀人さん、木川さんが来てくれたよ。またプリンを買ってきてくれた」
「ああ。よかったな」
 たかがプリンで子どものように喜ぶ彼に、こちらも笑って返してやる。そんな彼の後ろから、のっそりと木川が姿を現す。
 この部屋に戻って、涼本は望み通りオンラインの学習塾を始めた。赤字が出ても補填してやればいいと思っていたが、意外に需要があって利益を出しているらしい。今は把握できる程度の塾生しか教えていないが、そのうちもう少し増やせたらいいと言う。そんな涼本の仕事の効率を上げるために、木川がハード面でのサポートをしている。引き籠もりのコミュ障も変われば変わるものだ。それともそれは涼本の人柄のお陰なのだろうか。
「人の部屋に手土産を持ってくるとは、お前も随分と偉くなったものだな」
「いらないなら食べなくていいよ。涼本さんに買ってきたんだから」
「言うな」
 そんな言い合いをしながら、内心木川には言葉にできないほど感謝していた。事務所を守ってくれただけでなく、この部屋にも時々風を入れてくれていた。それに、宇美原のしたことに多分気づいていながら、知らないフリで従業員を続けてくれている。本当に彼は拾い物だった。
「キムチ鍋にしようかと思うんですけど、木川さん辛いものは平気ですか?」
「うん、大丈夫。涼本さんが作るものならなんでも」
「じゃあ、準備しますね。もう煮るだけに準備してあるんだ」
 涼本がぱたぱたとキッチンに入れば、木川は宇美原の斜め向かいのソファーで、彼らしくノートパソコンを広げて作業を始める。
「お前、矢名を奪おうなんて思うなよ」
 ついそんなことを言えば、彼に呆れ顔を向けられた。
「そんなことする訳ないだろ。仕事も住む場所も失いたくないからね」
「分かっているじゃないか」
 そんなやりとりを聞いていたらしい涼本が、苦笑しながらソファーにやってくる。
「木川さん、気にしないでくださいね。紀人さん、木川さんが好きで、つい意地悪を言いたくなるんです」
「おい。おかしなことを言うな。木川を好きな訳がないだろう?」
「はいはい。大事な従業員さんですもんね。さ、キリのいいところでキッチンに来てください。ご飯にしましょう」
 なんだかこの頃上手く涼本の手のひらで転がされているような気がするが、それもまた幸せだからいいかと思う。
 これから秋が深くなって寒い季節がやってくる。だがずっと彼を抱きしめて眠るから、寒さに怯えることはない。
 困難はあるだろう。秘密に耐えきれなくなって、壊れてしまいそうになる夜があるかもしれない。それでも、人生で一つだけ見つけた大事なものを、これからもずっと護っていきたい。
 後悔はない。出会えてよかった。見つけられてよかった。
 温かな食卓を囲みながら、宇美原はそう思うのだった。

*end*

→あとがき
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