たからもの、一つだけ。

「矢名」
「どんな紀人さんでもいい。俺を好きでいてくれたらそれで」
 そこまで言って、彼が泣き出してしまった。耐えてきたものがぷつんと切れるように言葉を途切れさせる。
「紀人さんが好きなんだ。だって紀人さんは、頑張らなくても俺のことを好きって言ってくれたから。プライドとか、兄さんへの当てつけで傍にいるんじゃない。もうそんなものはいらなくて、ただ紀人さんが好き」
「矢名」
 彼が泣くから、自分がしっかりしなければと思った。強く抱きしめて、空いた手で髪を撫でてやる。
「俺も好きだ。初めてずっと一緒にいたいと思った。これからも傍にいてくれるだろ?」
「うん。いる」
 迷いなく答えてくれたから、今はこれでいいと思った。キスをしてもう一度抱きしめてやれば、彼も抱き返してくれる。
「いい加減戻らないとな。男同士で抱き合っている不審者がいるって通報されたら大変だ」
「うん。温かいところに戻ろう。ご飯作って待っていたんだ」
「そうか」
 身体を離した彼を見上げて、そこに慣れた泣き笑いの笑顔を見つけた。酷くお人よしの顔。ハンカチを差し出されたあの日、この顔に惹かれた。色々と言い訳を並べたが、本当はあの日既に彼に参っていた。
「四月になったら引越しをしよう」
 歩きながらさらりと言った。少し不安げに見上げてくる彼に、大丈夫だと笑ってみせる。
「元いたところに帰ろう。もう何も心配ないから。そこで今度こそ、ちゃんと病院に通えるようにする」
「紀人さん」
 一瞬何か言いかけた彼が、結局は何も聞かずに頷いてくれる。
「ありがとう。戻ったら木川さんに会ってみたいな」
「木川? 会っても面白くないぞ」
「ふふ。意外と気が合うかもしれないでしょう?」
 そのうち彼の指先が触れた。何か言うより先に指が絡められて、ぎゅっと握られる。
「もう指はだいぶよくなったんだ。温かくなったら、きっともっとよくなるから」
「そうか」
 また少し力が籠もった指先が、大丈夫、何も心配ないと言ってくれた気がする。背負うものは消えない。けれど何を背負ってでも、涼本を護っていくという気持ちは変わらない。
「紀人さん」
「ん?」
「ごめんなさい。でも、ありがとう」
 それだけ言って、涼本は先に鍵を開けに走っていってしまった。部屋に戻っても、もうきっと話の続きをすることはない。
 彼はもう全部知っているのかもしれない。そういえば宇美原の気持ちも先に知られてしまっていた。彼はここぞというときの勘が鋭い。だが傍にいてくれるならそれでいい。
 大丈夫だと一つ息を吐いて、宇美原も部屋に帰っていった。
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