たからもの、一つだけ。

 車に戻ったところでぽつりと零れる。
 個包装のスティックシュガーしか置いていないような店がいいと言えば、こうも簡単に死ぬことはなかったのに。そう思えば、これまでの長い苦しみが馬鹿のように思えて笑ってしまう。
 なんの動揺もなく運転して帰った。渋滞にも遭わず、事故や検問に引っ掛かることもない。まるで自分がしたことは正しいと言われているようだ。
 だがマンションに帰って駐車場に車を入れたところで、突然身体が震え出した。そのまま部屋に帰ることができずに、近くの空き地までフラフラと歩いてしまう。
 何もない場所だった。だが来年には十階建てのマンションが建つと看板が出ている。田舎は田舎なりにこうして姿を変えていく。そんなどうでもいいことを思いながら、誰もいない空き地の中央まで歩いていく。
 そこではらはらと雪が舞っているのに気づいた。近所の商店街に不気味なほど人がいないと思っていたが、どうやら寒さでみな家に籠もっているらしい。
 らしくないと思いながら、手を出して落ちてくる雪を受け止めた。一秒と掛からず、宇美原の手の中で消えていく。だがこの雪は積もるだろう。明日の朝起きれば一面が真っ白に染まる。三月に雪が降り積もるなんて、前にいたところでは考えられなかった。だから宇美原にとって忘れられない景色になる。
 危ない仕事ならいくつも熟してきた。仕事相手が法を犯すだろうと分かっていて、間接的に手を貸したこともある。だがいつも自分が警察に追われることがないよう、慎重に相手との距離を測ってきた。もちろん自分がこんな恐ろしいことをした覚えはない。
 今更恐怖に襲われた。これから先、仕事で平然と警察関係者とやり合っていけるだろうか。もし御簾今日花の親族がやってきたら、顔色を変えずに嘘を吐き通せるだろうか。何より、涼本に秘密を隠していられるだろうか。万一知られてしまったとき、彼は自分を嫌わないだろうか。
 考えて叫び出したくなる。情けない。こんなことはこれまでの人生初めてだ。
「……紀人さん」
 どれくらいそうしていたのか、遠くから呼ばれて我に返った。彼の姿を見た途端、安堵でその場に崩れてしまう。
「紀人さん!」
 駆けてきた彼が傘を差し出してくれた。気がつけば雪が激しくなって、宇美原の肩にも白く積もってしまっている。
「部屋に戻ろう? こんなところにいたら風邪を引いてしまう」
 「矢名」
 声が優しくて、思わず抱きしめた。彼が持っていた青い傘が手から離れて、白くなり始めた地面に転がる。
「矢名」
「どうしたの、こんなところで。誰かに見られちゃうよ?」
 言いながら、彼は突き放そうとはしなかった。上手く言葉の出ない宇美原の身体に腕を回して、抱きしめて背中を撫でてくれる。
「矢名。俺は……」
 白状してしまいたい衝動に駆られて、だがすぐに言葉が途切れた。彼はどう思うだろう。彼に嫌われたくない。彼が離れていったら、そこで人生が終わってしまう。
「俺、紀人さんが好き」
 先に彼の方が言った。
「紀人さんにずっと傍にいてほしい。他は何もいらないから」
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