たからもの、一つだけ。
その日は意外に早くやってきた。
ごねると思った彼女が、意外に素直に宇美原の希望を受け入れてくれたのだ。約束の店に彼女はタクシーでやってきた。この辺りは道が狭くて、彼女の運転手が運転する車は不便なのだと、聞いてもいないことを説明してくれる。
「いい店ね。アンティークの家具が素敵。私、チェーン店よりこういう店が好きなの。あなたもたまにはいいことをするじゃない」
そう言って向かいの椅子に落ち着いた彼女は、以前長かった髪を肩のところまで切っていた。よく手入れされた栗色の髪が、オレンジの照明の下で艶々と輝いている。ベージュのマニュキアが塗られた指先にささくれ一つなくて、何不自由ない生活をしていたのだと知ってしまう。
「で、話って何? 漸く矢名を返してくれる気になった?」
運ばれてきたコーヒーにミルクと砂糖を入れてかき混ぜながら、彼女は白々しくそう言った。ブラックで飲むような女ではない。ミルクも砂糖もあるだけ使ってしまうタイプだと涼本に聞いていた。
「一度しっかり聞いておこうと思ったんだが、お前は一体どうしたいんだ? 矢名とやり直してまた一緒に暮らしたいのか? でも浮気をやめる気はないんだろ?」
聞けば彼女は首を傾げるようにしてにっこり笑った。それから唇を尖らせるようにして考える仕草を見せる。他の男なら可愛いと思うのかもしれないが、彼女の性格まで知り尽くした宇美原にとっては不愉快極まりない。
「私、幸せに暮らしたいの」
宇美原の内心に気づいたのか、おかしな仕草をやめた彼女が思いがけずまっすぐな目を向けてくる。
「幸せ?」
「そう。仲のいい人たちと出掛けて、おいしいものを食べて、幸せだなって思って毎日暮らしたい」
「それに矢名は必要ないだろ?」
「ううん」
宇美原の言葉を遮るように、彼女が強く言う。
「夕方まで遊んで家に帰ったら、家には矢名がいてほしいの。お帰りって言ってもらって、一緒にご飯が食べたい。矢名は料理上手だけど、難しいものを作ってくれなんて言わない。スーパーのお惣菜でもなんでもいいの。家で一緒にいてくれる人がほしい」
「そういうのを勝手というんだよ。それなら家政婦でも雇えばいいし、家政婦じゃダメなら好きな人間を雇えばいい。あんたが条件を提示すれば、いくらでも希望通りの人間はいる。矢名より若くて見た目のいい男ならいくらでもいるだろ?」
「私は矢名がいいの。矢名といると心が落ち着いて、今日はそろそろ家に帰ろう思えるの。朝まで遊ばなくても満足できるの」
どこまでも分かり合えない女だと思った。
「朝まで別の男と過ごす日もあるんだろ? そんな女と夫婦を続けていられるかよ。それに、矢名にだって幸せな人生を送る権利はある」
「矢名は私といて幸せだった筈よ。だって日本有数企業の会長と社長から頭を下げられるのよ。君のように人格が優れた人間はいないって言われて、小さい頃からのコンプレックスから解放されて、私と結婚してよかったって思った時期もあった筈なんだから。矢名はお金は受け取らなかったけど、高級時計とかネクタイとか、断り切れなくて受け取ったものもあるの。それをして出社すれば、会社でも優越感に浸れるのよ。ね? 幸せでしょう?」
どうやらただの馬鹿ではなく、少しは涼本の状況を分かっていたらしい。だがそれでやってきたことが許される筈もない。彼女は浮気を繰り返し、夫がいながら本命だと宣言した男とトラブルを起こして、涼本に好きではないと言い切ったのだ。誰がそんな女のところに戻りたいと思うのだ。
「もう、うんざりだったんだよ。あんたは普通の人間の常識から外れすぎている。それに矢名は、もうコンプレックスから解放されている」
「それはあなたが決めることじゃないわ。ねぇ、話し合いなんかでどうにかできるなんて初めから思っていないでしょう? 今日の目的は何?」
彼女の方から話を振られて、宇美原は分厚い封筒を取り出した。滑らすようにして差し出すが、彼女は中身を見ようともしない。
「とりあえず三百万ある。それで手を引いてくれないか。お姫様の買いものの足しくらいにはなるだろ」
「本気で言っているの? 私がこんなはした金で矢名を諦めるとでも?」
「いくらならいい?」
「分からない人ね。私、お金ならあるの。父の会社には近づかないって条件で、いくらでも都合してくれるの。欲しいのはお金じゃない」
「交渉決裂だな」
想像通りの流れに笑って、カモフラージュの封筒を鞄にしまった。いい時間だ。こんな女と話などしたくないと思いながら、よく粘った方だと思う。
「俺は帰る。もう追ってこないでもらえると助かるんだけどな」
「もうあなたたちの新しい住まいなら検討がついているの。押し掛けるまでの時間を楽しんでいるのよ。どう突撃してやろうかってね」
「そうかよ」
吐き捨てるように言って、高齢のマスターに手早く支払いを済ませてしまう。
「ごちそうさま。このお店が気に入ったから、私はもう少し楽しんでから帰る」
「好きにしろよ」
言い捨てて、カウベルのついたドアから出ていく。
そこでドア越しに、ドス、と重いものが落ちる音がした。人が一人椅子から落ちたのだろう。衝撃でテーブルごと倒れたのか、ガシャンという派手な音が続く。
マスターが追いかけてくるのは困るから、足早に立ち去った。
「安心しろ。死因は原因不明の心不全だ」
ごねると思った彼女が、意外に素直に宇美原の希望を受け入れてくれたのだ。約束の店に彼女はタクシーでやってきた。この辺りは道が狭くて、彼女の運転手が運転する車は不便なのだと、聞いてもいないことを説明してくれる。
「いい店ね。アンティークの家具が素敵。私、チェーン店よりこういう店が好きなの。あなたもたまにはいいことをするじゃない」
そう言って向かいの椅子に落ち着いた彼女は、以前長かった髪を肩のところまで切っていた。よく手入れされた栗色の髪が、オレンジの照明の下で艶々と輝いている。ベージュのマニュキアが塗られた指先にささくれ一つなくて、何不自由ない生活をしていたのだと知ってしまう。
「で、話って何? 漸く矢名を返してくれる気になった?」
運ばれてきたコーヒーにミルクと砂糖を入れてかき混ぜながら、彼女は白々しくそう言った。ブラックで飲むような女ではない。ミルクも砂糖もあるだけ使ってしまうタイプだと涼本に聞いていた。
「一度しっかり聞いておこうと思ったんだが、お前は一体どうしたいんだ? 矢名とやり直してまた一緒に暮らしたいのか? でも浮気をやめる気はないんだろ?」
聞けば彼女は首を傾げるようにしてにっこり笑った。それから唇を尖らせるようにして考える仕草を見せる。他の男なら可愛いと思うのかもしれないが、彼女の性格まで知り尽くした宇美原にとっては不愉快極まりない。
「私、幸せに暮らしたいの」
宇美原の内心に気づいたのか、おかしな仕草をやめた彼女が思いがけずまっすぐな目を向けてくる。
「幸せ?」
「そう。仲のいい人たちと出掛けて、おいしいものを食べて、幸せだなって思って毎日暮らしたい」
「それに矢名は必要ないだろ?」
「ううん」
宇美原の言葉を遮るように、彼女が強く言う。
「夕方まで遊んで家に帰ったら、家には矢名がいてほしいの。お帰りって言ってもらって、一緒にご飯が食べたい。矢名は料理上手だけど、難しいものを作ってくれなんて言わない。スーパーのお惣菜でもなんでもいいの。家で一緒にいてくれる人がほしい」
「そういうのを勝手というんだよ。それなら家政婦でも雇えばいいし、家政婦じゃダメなら好きな人間を雇えばいい。あんたが条件を提示すれば、いくらでも希望通りの人間はいる。矢名より若くて見た目のいい男ならいくらでもいるだろ?」
「私は矢名がいいの。矢名といると心が落ち着いて、今日はそろそろ家に帰ろう思えるの。朝まで遊ばなくても満足できるの」
どこまでも分かり合えない女だと思った。
「朝まで別の男と過ごす日もあるんだろ? そんな女と夫婦を続けていられるかよ。それに、矢名にだって幸せな人生を送る権利はある」
「矢名は私といて幸せだった筈よ。だって日本有数企業の会長と社長から頭を下げられるのよ。君のように人格が優れた人間はいないって言われて、小さい頃からのコンプレックスから解放されて、私と結婚してよかったって思った時期もあった筈なんだから。矢名はお金は受け取らなかったけど、高級時計とかネクタイとか、断り切れなくて受け取ったものもあるの。それをして出社すれば、会社でも優越感に浸れるのよ。ね? 幸せでしょう?」
どうやらただの馬鹿ではなく、少しは涼本の状況を分かっていたらしい。だがそれでやってきたことが許される筈もない。彼女は浮気を繰り返し、夫がいながら本命だと宣言した男とトラブルを起こして、涼本に好きではないと言い切ったのだ。誰がそんな女のところに戻りたいと思うのだ。
「もう、うんざりだったんだよ。あんたは普通の人間の常識から外れすぎている。それに矢名は、もうコンプレックスから解放されている」
「それはあなたが決めることじゃないわ。ねぇ、話し合いなんかでどうにかできるなんて初めから思っていないでしょう? 今日の目的は何?」
彼女の方から話を振られて、宇美原は分厚い封筒を取り出した。滑らすようにして差し出すが、彼女は中身を見ようともしない。
「とりあえず三百万ある。それで手を引いてくれないか。お姫様の買いものの足しくらいにはなるだろ」
「本気で言っているの? 私がこんなはした金で矢名を諦めるとでも?」
「いくらならいい?」
「分からない人ね。私、お金ならあるの。父の会社には近づかないって条件で、いくらでも都合してくれるの。欲しいのはお金じゃない」
「交渉決裂だな」
想像通りの流れに笑って、カモフラージュの封筒を鞄にしまった。いい時間だ。こんな女と話などしたくないと思いながら、よく粘った方だと思う。
「俺は帰る。もう追ってこないでもらえると助かるんだけどな」
「もうあなたたちの新しい住まいなら検討がついているの。押し掛けるまでの時間を楽しんでいるのよ。どう突撃してやろうかってね」
「そうかよ」
吐き捨てるように言って、高齢のマスターに手早く支払いを済ませてしまう。
「ごちそうさま。このお店が気に入ったから、私はもう少し楽しんでから帰る」
「好きにしろよ」
言い捨てて、カウベルのついたドアから出ていく。
そこでドア越しに、ドス、と重いものが落ちる音がした。人が一人椅子から落ちたのだろう。衝撃でテーブルごと倒れたのか、ガシャンという派手な音が続く。
マスターが追いかけてくるのは困るから、足早に立ち去った。
「安心しろ。死因は原因不明の心不全だ」