たからもの、一つだけ。

 それから数日は涼本の心のケアに多く時間を使った。
 本を読むにしても、彼を腕に抱いていれば不安にさせることはないと、そんな単純なことに気がつく。医学書の図解のページを眺めて二人で話をする。時々彼に触れて悪戯をしたり、彼が宇美原の肩に頭を寄せて眠ってしまったりと、幸せな時間が戻ってくる。
 そうして充分彼の心が落ち着いたところで出掛けることにした。朝早く起きてスーツに着替える宇美原に、朝食の支度を終えた涼本が不安げな声を向けてくる。
「どこに行くの? 遅くなる?」
「ああ。木川のところに行くから少し遅くなる。夕方には戻ってくるから」
「木川さん? ネットじゃダメなの?」
「ああ。あいつのことも長く放ってしまっているから、そろそろちゃんとしないとと思ってな。スーツまで着ることもないんだけど、まぁ、けじめだ」
「……そう」
 そこまで言えば、彼がそれ以上聞いてくることはなかった。朝食と身支度を終えると、玄関まで送りに出てくれる。
「気をつけて」
「ああ。今日はなるべく外に出ないようにして、何かあったらすぐ電話をくれ。それと木川のキーホルダーを離さず持っていてくれ」
「うん」
 今日彼が外出しなくていいように、必要なものはあらかじめ買っておいた。以前のこともあるから、彼は部屋にいてくれる筈だ。今日と、もう一日。それでカタはつく。あと二日だけ我慢してほしい。
 早く出たから、渋滞にも遭わずに元いた地域に戻ることができた。逃亡生活中も賃料を払い続けている事務所に到着して、慣れた駐車場に車を入れる。
「元気にやっていたか?」
 チャイムも鳴らさず部屋に入って、パソコン部屋のドアも開けてやれば、いつかと同じように彼がちらりと宇美原を見て、無言でパソコンに顔を戻してしまった。
「新しいパソコンが買えるくらいの金は振り込んでやっただろ。そう怒るなって」
 無表情でも不機嫌が分かる彼に、珍しく宥めるような言い方をする。そのうちそんな態度も面倒になったのか、彼がキーボードから手を離して身体ごと顔を向ける。
「まだあの女から逃げきっていないんだろ? 今日はなんの用だ」
「ああ。お前にここから離れてほしいと思ってな」
 ストレートに言えば彼の眉がピクリと上がった。
「俺はもう用なしってことか?」
「そうじゃない」
 珍しく食って掛かるような言い方をされて苦笑する。だがすぐにその顔を引っ込めた。まっすぐに彼の目を見つめる。
「まずい仕事をする。失敗するつもりはないが、万が一の場合ここにも警察が来るだろう。だから念のためだ。俺の仕事を手伝っていたことは忘れて、別の場所で別の人生を生きろ。退職金代わりに纏まった金を振り込んでおく」
「フン」
 彼に対してこれまでないほど真面目な話をしたのに、木川は鼻で笑ってモニターに視線を戻してしまう。
「おい」
「俺に別の仕事が見つかると思うか?」
 パソコン作業を再開させた彼が呆れたように言う。
「まぁ、無理だろうな」
「だろ?」
 宇美原もパソコンに近づいて言えば、また珍しいことに彼が小さく笑った。
「言っておくけど、宇美原さんは他人のやばい仕事をいくつも見てきたんだろうけど、実際に自分が手を下すような仕事は上手く避けてきただろ? でも俺は違う。実際にやばいデータベースに何度も侵入して、極秘情報をいくつも不正に入手してきた。宇美原さんが何をしようとしているか知らないけど、俺の方が余程やばい人間なんだよ。もうやばすぎて逃げる気にもならない」
「やばいって言葉が好きだな」
「そこは関係ないだろ」
 わざと軽口で返して宇美原も笑う。どうやら彼に宇美原のもとを去る気はないらしい。調べものが得意でこちらのすることに口を出さないというのが気に入った人間だったが、思ったより拾い物だったのかもしれない。
「早くゲームを終わらせて帰ってきてよ。それで宇美原さんがそこまで夢中になる宝物みたいな恋人を見せてよ。一体どれだけ綺麗なんだか」
 そう言われて、そんな未来が欲しいなと思った。宝物。コミュ障の彼にしては上手いことを言う。確かに涼本は宝物だ。
「お前がいてくれてよかったよ」
「今更気づいたか」
 全く、今日の彼は切り返しが速い。
「辞める気がないなら、一つ頼みがある」
 声音を変えて言えば、彼がまた視線だけを向けてきた。その視線が、俺に調べられないことはないと言っている。
「喫茶店を調べてほしい」
「……喫茶店?」
「ああ。女が喜びそうなレトロな店がいい。店は薄暗くて、監視カメラなんてなくて、砂糖が瓶に入っているような古い店だ。従業員は歳を取ったマスター一人だと猶いい。彼はこのところ目の調子があまりよくない」
 そんな細かな情報まで店舗情報に載っている筈はないのに、彼は自信ありげにキーボードを打ち始める。
「全部叶えてやるよ」
「ああ。頼む」
 彼は数分で調べ上げるだろう。だからもう後戻りはできない。カタカタと仕事を進める彼の背を眺めて、心を決めた。
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