たからもの、一つだけ。
幾度かの引越しを繰り返すうちに、逃亡生活も一年が過ぎていた。
もう意地かゲームのつもりかと思うほど、御簾今日花はどこまでも追ってくる。宇美原宛てにいくつか嫌がらせもされた。弁護士として正当な方法を取っても、探偵としてあくどい手を使っても、彼女はそれを掻い潜ってくる。彼女の傍にいる人間はかなり優秀な人間だろうが、同じくらい暇なのだろう。その能力を他に活かせばいいのにと思うが、直接姿を現したことはないから言ってやることもできない。とにかく、いい加減そのしつこさには参っていた。
闇医者の言葉通り涼本の左腕には麻痺が残って、重いものが持てなくなり、指先で薄いものが掴めなくなり、不自由をさせてしまっていた。刺したのは自分だし、迷惑になって逆に申し訳ないと言われるが、彼を護れなかった自分の責任だと悔やんでも悔やみきれない。何かを落として、「またやってしまった」とわざと明るく笑う彼を見るたびに、不憫で仕方なかった。
後悔は、次第に宇美原の中である思いに変わっていく。
引越しのせいでなかなか一つの病院に通わせてやれないから、宇美原は自分で医学書を読み漁った。涼本の身体が楽になることはなんでも習得したい。そんな思いで、薬学書や漢方の本にも手を出すようになる。
「紀人さん」
その日も寝室のベッドに寄りかかって本を読んでいて、ドアの前で涼本の声を聞いた。
「ご飯できたけど、まだ忙しい?」
彼が近づいて声を掛けてくれていることは分かるのに、宇美原の意識は本に夢中だった。司法試験に合格した自分なら、医学の知識を得るのもそう難しくないと思っていたが、それは間違いだった。人間の身体はどこまでも複雑で、涼本の指先の不自由を治してやりたいと思うのに、そのためには神経や脳の知識も必要になる。薬も同じで、欲しい効果を得るために強い薬を使えば、副作用で他の部分がおかしくなる。毎日膨大な知識と格闘して、時々自分が何を求めているのか分からなくなる。
「宇美原さん。あの、あんまり根を詰めると身体によくないから」
「分かっている」
ほとんど無意識に手で払うようにして、すぐにはっとした。顔を上げた先で、涼本が酷く哀しげな顔をしている。
「悪い。本に集中していて、つい」
「うん。大丈夫。分かっているから」
涼本はすぐに眉を下げて笑った。それでも宇美原には分かる。笑っていながら、今の彼はどうしようもなく傷ついて、泣きそうな気持ちでいる。
「矢名」
「ゆっくり準備して待っているから、キリがいいところで来てね。今日は蕪のスープを作ったから」
すぐに追って抱きしめてやらなければならないと分かっていて、それができなかった。彼に不自由な身体で不自由な生活をさせている自分が情けない。自分はそんな人間ではなかった。どんなことも解決して、解決できないものはさっさと切り捨てる。面倒なものや自分を煩わせるものはみな手放して、悩みなく生きてきた。何故今それができないのだろう。
彼を手放せば楽になるのだろうかと、ふとその考えが湧いた。このところの宇美原を蝕む思い。金のある彼女の傍で暮らした方が幸せなのではないか。少なくとももう引越しはしなくていい。彼女なら涼本の腕を治せる医者を知っているのではないか。
そこまで考えて、はっとする。何を馬鹿なことを考えているのだ。涼本は宇美原が好きだと言ってくれた。御簾今日花のところに戻りたくないとも。その気持ちを踏みにじろうとするなんて、自分はどれだけ疲れているのだろう。
そもそも自分が彼と離れたくなかった。彼女が涼本を取り戻したら、もう二度と会うことはできないだろう。彼女が全力で宇美原を排除することは目に見えている。そうなればまた一人の生活に戻る。楽に金を稼げる仕事をして部屋に帰る。そこに涼本はいない。それを想像して絶望する。それでは生きている意味がない。涼本と会うまで当たり前だった生活は、もう戻ってこない。
仕事にも金にも執着はなかった。ただ彼だけが欲しい。手放すことなどできない。その気持ちは変わらない。それなら自分はどうすればいい。
そこでガシャンと大きな音がした。
「矢名!」
もう意地かゲームのつもりかと思うほど、御簾今日花はどこまでも追ってくる。宇美原宛てにいくつか嫌がらせもされた。弁護士として正当な方法を取っても、探偵としてあくどい手を使っても、彼女はそれを掻い潜ってくる。彼女の傍にいる人間はかなり優秀な人間だろうが、同じくらい暇なのだろう。その能力を他に活かせばいいのにと思うが、直接姿を現したことはないから言ってやることもできない。とにかく、いい加減そのしつこさには参っていた。
闇医者の言葉通り涼本の左腕には麻痺が残って、重いものが持てなくなり、指先で薄いものが掴めなくなり、不自由をさせてしまっていた。刺したのは自分だし、迷惑になって逆に申し訳ないと言われるが、彼を護れなかった自分の責任だと悔やんでも悔やみきれない。何かを落として、「またやってしまった」とわざと明るく笑う彼を見るたびに、不憫で仕方なかった。
後悔は、次第に宇美原の中である思いに変わっていく。
引越しのせいでなかなか一つの病院に通わせてやれないから、宇美原は自分で医学書を読み漁った。涼本の身体が楽になることはなんでも習得したい。そんな思いで、薬学書や漢方の本にも手を出すようになる。
「紀人さん」
その日も寝室のベッドに寄りかかって本を読んでいて、ドアの前で涼本の声を聞いた。
「ご飯できたけど、まだ忙しい?」
彼が近づいて声を掛けてくれていることは分かるのに、宇美原の意識は本に夢中だった。司法試験に合格した自分なら、医学の知識を得るのもそう難しくないと思っていたが、それは間違いだった。人間の身体はどこまでも複雑で、涼本の指先の不自由を治してやりたいと思うのに、そのためには神経や脳の知識も必要になる。薬も同じで、欲しい効果を得るために強い薬を使えば、副作用で他の部分がおかしくなる。毎日膨大な知識と格闘して、時々自分が何を求めているのか分からなくなる。
「宇美原さん。あの、あんまり根を詰めると身体によくないから」
「分かっている」
ほとんど無意識に手で払うようにして、すぐにはっとした。顔を上げた先で、涼本が酷く哀しげな顔をしている。
「悪い。本に集中していて、つい」
「うん。大丈夫。分かっているから」
涼本はすぐに眉を下げて笑った。それでも宇美原には分かる。笑っていながら、今の彼はどうしようもなく傷ついて、泣きそうな気持ちでいる。
「矢名」
「ゆっくり準備して待っているから、キリがいいところで来てね。今日は蕪のスープを作ったから」
すぐに追って抱きしめてやらなければならないと分かっていて、それができなかった。彼に不自由な身体で不自由な生活をさせている自分が情けない。自分はそんな人間ではなかった。どんなことも解決して、解決できないものはさっさと切り捨てる。面倒なものや自分を煩わせるものはみな手放して、悩みなく生きてきた。何故今それができないのだろう。
彼を手放せば楽になるのだろうかと、ふとその考えが湧いた。このところの宇美原を蝕む思い。金のある彼女の傍で暮らした方が幸せなのではないか。少なくとももう引越しはしなくていい。彼女なら涼本の腕を治せる医者を知っているのではないか。
そこまで考えて、はっとする。何を馬鹿なことを考えているのだ。涼本は宇美原が好きだと言ってくれた。御簾今日花のところに戻りたくないとも。その気持ちを踏みにじろうとするなんて、自分はどれだけ疲れているのだろう。
そもそも自分が彼と離れたくなかった。彼女が涼本を取り戻したら、もう二度と会うことはできないだろう。彼女が全力で宇美原を排除することは目に見えている。そうなればまた一人の生活に戻る。楽に金を稼げる仕事をして部屋に帰る。そこに涼本はいない。それを想像して絶望する。それでは生きている意味がない。涼本と会うまで当たり前だった生活は、もう戻ってこない。
仕事にも金にも執着はなかった。ただ彼だけが欲しい。手放すことなどできない。その気持ちは変わらない。それなら自分はどうすればいい。
そこでガシャンと大きな音がした。
「矢名!」