たからもの、一つだけ。

 なんだ、と思った。怪しげな男に声を掛ける危なっかしさと、護ってやりたくなるような小さな身体でいながら、しっかり家庭を持っていた。それが何故か無性に面白くない。何もかも思い通りになるような生活の中で、そんな感情は久しぶりだ。
 少し遊ぶのもいいかもしれない。帰りのタクシーでそんなことを思った。
 かなり純粋な男だろう。そんな男を金で変えてみるのも面白い。人生を狂わせるようなことはしないが、人生経験を与えてやればいい。こちらも退屈凌ぎにはなる。
 そう決めて、まっすぐ家に帰るつもりが途中で行き先を変えた。
 向かったのは自分の城である探偵事務所だ。品川駅から徒歩十分程の雑居ビル。五階建ての小ぢんまりとした建物だが、セキュリティーシステムと清潔さが気に入って五階をワンフロア丸々契約している。
 ビルのオーナーは聡い男で、例え空き室が出ようと入居者の選定には気を配っていた。お陰で下の階には違法すれすれの消費者金融と税理士事務所が入っているが、トラブルは聞いたことがないしオフィスや共有スペースを汚すような者もいない。恐らく清掃会社スタッフと言って毎日やってくる人間がオーナーのスパイなのだろう。
 警察が来るようなへまをやれば、問答無用で追い出されて違約金まで取られてしまう。宇美原はそれで問題ないし、快適なオフィスを至極気に入って過ごしている。ルールを守って賃料を前払いしておけば、探偵なんて他では嫌がられそうな職種も気にせずいてくれる。ありがたいことだ。
 ワンフロア二部屋の造りの五階にエレベーターで上がって、オフィスとは逆の廊下を進んだ。オフィスの斜め向かいに同じ造りのドアがあり、その部屋の鍵を開けて入っていく。
「起きているか?」
 返事も聞かずにリビングに進めば、ソファーでノートパソコンを弄っていた男がちらりと顔を上げた。気が向いたときにしか返事をしないのはいつものことだ。
「頼みがある」
「新しいモニターが欲しい」
 画面に視線を戻しながら言う男に苦笑した。木川良きがわりょう。彼は二つ下の三二歳で見た目もそう悪くないのだが、重度のパソコンオタク引き籠もりでコミュ障だ。縁があって拾って従業員にしてやった。
 仕事の時間以外は好きなだけパソコンを弄っていても文句を言わない。時々最新の機器を買い与える。それさえ守れば固定給は月二十万で充分だと言う。宇美原がブラックに近い仕事をしようと、その手伝いを頼もうと、彼が何か意見することはない。そんなところが気に入って、オフィスの隣の空き室を与えてやった。元々同じフロアに他社がいるのが嫌で丸々借りていただけだから、使い道ができてよかったのだ。急な仕事ができたときには夜だろうと朝だろうと宇美原が入っていく。それも特に問題はないらしい。
「満足のいく仕事ができたら金をやるから、それで好きに買いに行けばいい。急ぎの調べものだ。ある男について調べてほしい」
 そう言えば木川が立ち上がって奥の部屋に向かった。ドアを開ければ、そこには先程までいた高層ビルの警備室にも負けないようなモニターとパソコン、宇佐美には最早使い方すら分からない周辺機器が並んでいる。
「名前は?」
「さぁな。スピリアーホテルビルの中のオフィスで働く男で、歳は二十代だろう。それに既婚者だ。ああ、総務で働いていると言っていた」
「随分と少ない情報だな」
「難しいか?」
「まさかだろ」
 言いながら彼はキーボードを打ち始める。どこかのデータバンクに侵入するのだろう。当然足がつくようなへまはしない。
「できるだけ多くの情報が欲しい」
 重ねて言ったが、集中し始めた彼から声が返ることはなかった。
3/38ページ
スキ