たからもの、一つだけ。
しばらくはネットで仕事をして過ごそうと決めた。
当面の生活に困らないほどの貯えはあるが、以前からの人脈を繋いでおいて損はない。幸い、宇美原の状況をなんとなく察して、木川を通してひっそりと仕事の依頼をくれる人間がいた。昔危険な依頼を受けてくれた礼だと言って、裏の援助を申し出てくれる者もいて、こんなときだというのに温かな気持ちになる。
まずい仕事に関わる人間なりに、助け合いの気持ちはあったのだと、この歳になって一つ新しいことを知った。もちろん涼本との生活を守るために、どの人間も完全に信用することはない。それでもありがたいことに変わりはなかった。
事務所は木川が守ってくれている。例え敵の誰かがやってきても、気に入らない人間とは一切口を利かない彼だから、宇美原の居場所をばらすようなことはしないだろう。ネットで得た情報で敵を脅すことくらいはやってのけそうだから、心配はしていない。
涼本は最小限しか外出をせず、部屋で宇美原のために細々とした家事をして過ごしていた。退屈しないようにゲームや本を買い与えようとしても、彼はいらないと言う。時々宇美原に身体を寄せて、抱きしめてほしいとそれだけをねだる彼に、やはり元のように普通の生活をさせてやりたいという思いが募る。
実の兄に劣等感があって、それを晴らすために好きでもない女と結婚したのはよくなかったのだろう。だが涼本は彼女と上手くやろうと努力した。彼女が気に入るマンションを買って、家事も引き受けて、本当の夫婦になろうとした。そんな彼が、何故身を潜めて生きなければならないのだろう。また少し痩せた身体を抱きながら、その疑問は強くなる。
「いつか、オンラインの学習塾をやってみたい」
あるとき彼がそう言った。家庭の事情であまり学校に通えないような子ども向けに、一回五百円で勉強を教えてあげたい。利益がなさすぎて宇美原さんには呆れられてしまうだろうけれどと、そう言って笑う彼の願いを叶えてやりたい。宇美原にとってごく簡単な願いだ。今、叶えてやれないのは何故かなのか。それを思えば、また黒い思いが募っていく。
いつのまにか雪の季節になっていた。以前いたところでは年に一、二度しか降らなかったが、ここでは冬は雪が当たり前で、道路脇には常に除けられた雪が積み上がっている。まだ十二月だというのに吹雪にも遭って、そんな夜は涼本と部屋で静かに身を寄せ合って過ごす。
雪が落ち着いて、漸く晴れ間の出た週末だった。買い忘れたものがあるからと、夕方近所のスーパーに向かった涼本がなかなか戻らない。
「矢名」
部屋から徒歩二分のスーパーだった。不安に駆られて宇美原も向かうが、店内中を探しても彼の姿はない。
涼本が唯一一人で出かける場所で、もう何度も通っていた筈だった。こんな田舎のスーパーで何か起こる訳がないと思いながら、不安は募っていく。
一人で買いものになど行かせるのではなかった。そう後悔しながら、一度部屋に戻って携帯を鳴らした。呼び出し音だけで繋がらない携帯に舌打ちして、捜索を頼もうと木川の番号を呼び出す。涼本は木川が作ったキーホルダーを持っている。
そこでガチャリと玄関が開いた。
「矢名!」
「……紀人さん」
すぐに玄関に向かって、そこで見た彼の姿に驚愕した。
「矢名」
彼の身体を腕に包みながら、声を上げずにはいられない。
「一体何があった?」
「ちょっと色々あって」
そんな状況ではないのに、涼本は楽しげにすら見える顔で答えて、それが逆に状況の悪さを物語っている。
「とにかく救急車を呼ぼう。応急処置をするから来い」
涼本をリビングのソファーに落ち着かせて携帯を操作しようとすれば、のんびりした声で止められる。
「救急車はいいよ。意識もしっかりしているし、軽症で呼んだら悪いでしょう?」
「どこが軽症だ」
つい口調がきつくなる。
涼本はシャツの左肩から肘にかけて、血で真っ赤に染まるほどの怪我をしていた。一体どうしてこんなことになったのだろう。
「俺の車で行こう。とにかく止血と消毒をしないと」
部屋にある救急セットでできるだけの手当てをした。ダメ元で木川に検索を頼めば、すぐにメールで夜間診療をしている病院と、腕のいい闇医者の一覧が送られてくる。
「痛いか?」
当面の生活に困らないほどの貯えはあるが、以前からの人脈を繋いでおいて損はない。幸い、宇美原の状況をなんとなく察して、木川を通してひっそりと仕事の依頼をくれる人間がいた。昔危険な依頼を受けてくれた礼だと言って、裏の援助を申し出てくれる者もいて、こんなときだというのに温かな気持ちになる。
まずい仕事に関わる人間なりに、助け合いの気持ちはあったのだと、この歳になって一つ新しいことを知った。もちろん涼本との生活を守るために、どの人間も完全に信用することはない。それでもありがたいことに変わりはなかった。
事務所は木川が守ってくれている。例え敵の誰かがやってきても、気に入らない人間とは一切口を利かない彼だから、宇美原の居場所をばらすようなことはしないだろう。ネットで得た情報で敵を脅すことくらいはやってのけそうだから、心配はしていない。
涼本は最小限しか外出をせず、部屋で宇美原のために細々とした家事をして過ごしていた。退屈しないようにゲームや本を買い与えようとしても、彼はいらないと言う。時々宇美原に身体を寄せて、抱きしめてほしいとそれだけをねだる彼に、やはり元のように普通の生活をさせてやりたいという思いが募る。
実の兄に劣等感があって、それを晴らすために好きでもない女と結婚したのはよくなかったのだろう。だが涼本は彼女と上手くやろうと努力した。彼女が気に入るマンションを買って、家事も引き受けて、本当の夫婦になろうとした。そんな彼が、何故身を潜めて生きなければならないのだろう。また少し痩せた身体を抱きながら、その疑問は強くなる。
「いつか、オンラインの学習塾をやってみたい」
あるとき彼がそう言った。家庭の事情であまり学校に通えないような子ども向けに、一回五百円で勉強を教えてあげたい。利益がなさすぎて宇美原さんには呆れられてしまうだろうけれどと、そう言って笑う彼の願いを叶えてやりたい。宇美原にとってごく簡単な願いだ。今、叶えてやれないのは何故かなのか。それを思えば、また黒い思いが募っていく。
いつのまにか雪の季節になっていた。以前いたところでは年に一、二度しか降らなかったが、ここでは冬は雪が当たり前で、道路脇には常に除けられた雪が積み上がっている。まだ十二月だというのに吹雪にも遭って、そんな夜は涼本と部屋で静かに身を寄せ合って過ごす。
雪が落ち着いて、漸く晴れ間の出た週末だった。買い忘れたものがあるからと、夕方近所のスーパーに向かった涼本がなかなか戻らない。
「矢名」
部屋から徒歩二分のスーパーだった。不安に駆られて宇美原も向かうが、店内中を探しても彼の姿はない。
涼本が唯一一人で出かける場所で、もう何度も通っていた筈だった。こんな田舎のスーパーで何か起こる訳がないと思いながら、不安は募っていく。
一人で買いものになど行かせるのではなかった。そう後悔しながら、一度部屋に戻って携帯を鳴らした。呼び出し音だけで繋がらない携帯に舌打ちして、捜索を頼もうと木川の番号を呼び出す。涼本は木川が作ったキーホルダーを持っている。
そこでガチャリと玄関が開いた。
「矢名!」
「……紀人さん」
すぐに玄関に向かって、そこで見た彼の姿に驚愕した。
「矢名」
彼の身体を腕に包みながら、声を上げずにはいられない。
「一体何があった?」
「ちょっと色々あって」
そんな状況ではないのに、涼本は楽しげにすら見える顔で答えて、それが逆に状況の悪さを物語っている。
「とにかく救急車を呼ぼう。応急処置をするから来い」
涼本をリビングのソファーに落ち着かせて携帯を操作しようとすれば、のんびりした声で止められる。
「救急車はいいよ。意識もしっかりしているし、軽症で呼んだら悪いでしょう?」
「どこが軽症だ」
つい口調がきつくなる。
涼本はシャツの左肩から肘にかけて、血で真っ赤に染まるほどの怪我をしていた。一体どうしてこんなことになったのだろう。
「俺の車で行こう。とにかく止血と消毒をしないと」
部屋にある救急セットでできるだけの手当てをした。ダメ元で木川に検索を頼めば、すぐにメールで夜間診療をしている病院と、腕のいい闇医者の一覧が送られてくる。
「痛いか?」