たからもの、一つだけ。

 怪我はたいしたことはなかった。
 朝になってからでいいと言ったが、涼本がすぐに診てもらってほしいと譲らないので、タクシーで近所の夜間救急に向かう。しばらく消毒は必要だが縫うほどではないと言われて、化膿止めを貰って帰ることになった。
「ごめん、宇美原さん」
 普段から白い肌を更に白くして、涼本は俯いている。
「矢名のせいじゃない。怪我もたいしたことはなかったし。俺の反射神経の賜物だな」
 帰りのタクシーの中で軽い調子で言ってみても、彼の表情は変わらない。自分の怪我はいいが、彼にこんな顔をさせるつもりはなかったと反省する。
 部屋に戻ると、彼が無言で鞄に私物を詰め始めた。
「何をしている」
「何って、今日花のところに戻る準備をしないと」
 彼女を去らせるために言った言葉を、律儀に護るつもりでいるらしい。
「戻る必要はない」
「でも」
「俺は弁護士で、今夜怪我をさせられたのも俺だ。こっちになんの落ち度もないし、訴えられても勝つのは俺だ」
「今日花は常識が通用する人間じゃない。特に感情が爆発したときは何をするか分からない」
 先程宇美原も感じたことを、涼本が苦しげに口にする。
「これ以上宇美原さんに迷惑を掛けたくない」
「お前を迷惑だと思うことはない」
 そこまで言い合って、ふっと息を吐いた。
 二人で揉めていてどうする。ここは自分が冷静にならなければならない。
「それなら、その荷物を持ってここを離れよう」
「え?」
「探偵業で危険なことがあった場合に備えて、もう一つ部屋を持っているんだ。車で三十分くらいで行けるから」
 その提案に涼本は迷うような顔を見せた。
「ここ最近は出入りしていないから、あの女には絶対にばれていない。しばらく避難して策を練ればいい」
 そこまで言って漸く頷いてくれる。
 辺りを充分確認してからタクシーに乗り、小さな雑居ビルの二階にある隠れ部屋に向かった。二ヵ月振りだが、入ってみれば室内は意外に綺麗なままだ。小さなキッチンとバスルームはついているが、他は必要最小限のものしかない部屋だった。シングルベッドが一つ置いてあるが、テレビも冷蔵庫もない。それでも、彼女が突然やってくる心配がないだけマシだ。
 造りつけの引き出しにまだ開けていないシーツが放り込んであって、取り出してビニールを破った。これでとりあえず一晩は寝られる。
「不便で悪いな」
「いえ。充分です」
「必要なものがあればコンビニで買ってくるけど、欲しいものはあるか?」
「宇美原さん」
 シンクの水が問題なく出ることを確認していたところで、涼本が背中から抱きついてきた。
「矢名?」
 振り向こうとするのを、彼が更に腕に力を籠めて止める。
「ありがとう。俺、本当は今日花のところになんか帰りたくない」
 泣きそうな声で言われて、抑えられなくなった。腕を解いた彼を抱きしめて、壁に背を押しつけて唇を奪う。
「何も心配はいらない。俺と二人で暮らすことだけ考えていればいい」
「うん。……好きです、宇美原さん」
「俺も好きだ」
 その夜狭いベッドで求める宇美原を、涼本は同じくらい求めてくれた。眠らないといけないと分かっていて、二人とも止められずに求め続ける。吐き出して、すぐに互いの存在を確かめ合うように抱きしめ合う。そしてすぐにまた欲しくなる。
 どんな手を使ってもいい。彼は絶対に離さない。
 強い想いを抱えて、明け方漸く細い身体を抱いて眠りに落ちた。疲れ切るまで抱いたから、嫌な夢を見ずに眠れる筈だと、眠る彼の頬に触れて思う。
『他人の旦那を奪う、同性愛者の悪徳弁護士』
 週刊誌にそんな記事が出たのは、それから二週間後のことだった。
「酷い。どうしてこんな」
「あの女が金で書かせたんだろうな」
 本を手に身体を震わせる涼本を落ち着かせるために、わざとどうでもいい声を返す。
 この二週間、涼本は防犯ブザーを持って普通に出勤していた。宇美原が送ることもあったが、誰かにつけられている様子もない。木川と連絡を取りながら、実は御簾今日花の気が変わって、もう涼本を追うのはやめたのではないかと考えることもあった。だがその考えは甘かった。どうやら宇美原は途轍もなく彼女を怒らせてしまったらしい。
『旦那を奪われたKさんの告白。その呆れた手口』
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