たからもの、一つだけ。
今夜は初めから何か予感があったのかもしれない。身体を硬くする彼を一度強く抱きしめてから、宇美原がインターホンへと向かう。
「こんな時間に誰だ?」
白々しく穏やかな声を向けてやれば、意外にも相手も穏やかな声を返してきた。
「初めまして。涼本今日花といいます」
今は御簾今日花なのに、彼女はわざとそう名乗る。
「主人を返していただけませんか? 宇美原紀人さん」
明るいのに背筋を震わせるような声で、彼女はそう言った。そうだろうと思ってはいたが、彼女は既に宇美原のことを調べ上げている。
「お客さん?」
不安げに聞いてくる彼をこれ以上苦しめたくなかった。涼本の知らない人間だというフリで、わざとやれやれという調子で答えてやる。
「古い知り合いだ。大方俺にタダで仕事をさせようと思って来たんだろ」
二人で暮らすこの部屋に彼女を入れたくなかった。すぐに帰ってもらうのだと、玄関のドアを睨みつける。
「少し出てくる」
「こんな夜中に?」
「心配するな。浮気はしない」
わざと軽口で返してやれば、涼本が可愛らしく膨れてみせた。
「そんなこと言ってないでしょう?」
「俺は矢名一筋だからな」
インターホンを切り、さりげなく涼本をリビングに戻してドアを閉めてから玄関に向かった。
護身術も武道も学んでいる。自分が怪我をするつもりはないが、彼女にも怪我などさせない。彼女のためではない。小さな怪我でどんな訴えを起こされるか分からないのだ。
一つ息を吐いてドアレバーに手を掛ける。
「……っ!」
薄くドアを開けて出たところで刃物が向かってきた。素早くドアから離れて、彼女と距離を取る。見れば刃が折り畳めないタイプのアウトドアナイフだった。切れ味抜群。キッチンで使う包丁でも持ってくれば可愛げもあるが、彼女はそんなものは持ち合わせていないらしい。
「物騒だな」
何度か向かってきたのを避けて笑ってやれば、宇美原に刃を向けたままの彼女も無邪気に笑った。笑っていても怖い顔だ。小さな頃から全て思い通りにやってきたから、一般人の常識など通用しないのだろう。
「流石。反射神経いいんですね」
外廊下の明かりに照らされて、長い髪の彼女が楽しげに言う。それだけで、まともな話し合いができる相手ではないと分かる。
「矢名をもういらないと言ったのはお前だろ? 今更なんだ」
「やっぱり彼ほど優しい人はいないって気づいたの。夫婦だったんだから、そう簡単に絆は切れないでしょう?」
「それでまた浮気を繰り返しながら矢名と暮らしていくつもりか。勝手だな」
吐き捨てるように返さずにいられなかった。涼本は彼女が好きに生きるための道具ではない。彼女とはとっくに切れて、新しい人生を生きている。
「会いたいのはあなたじゃない。主人を出してくれませんか」
「矢名はもうお前の夫じゃない……!」
そこでもう一度刃物が向かってきた。素人の女の攻撃だ。難なく避けて、手首ごと封じてやる。
だがそこでガチャリと玄関が開いた。
「宇美原さん!」
刃物に気づいた涼本が、悲痛な声を上げて二人の間に入ろうとする。
「矢名!」
途端、彼女がなんとか宇美原の手を払おうと、刃物を持つ手に力を籠める。このままでは涼本に当たってしまう。そう思い、咄嗟に彼女の手を離して涼本を背中に庇う。
その瞬間、左肩にスッと痛みが走った。無茶苦茶に振り回されていた刃物が掠ったらしい。
「宇美原さん!」
たいしたことはないと思ったのに、シャツから血が滲んで赤く染まっていった。これくらいなんでもないと思う気持ちに反して、血の赤は大きくなっていく。
「もう、ダメだ。宇美原さんを巻き込まないでほしい」
泣きそうに涼本が言った。
「じゃあ、私のところに戻ってくれる?」
人を刃物で傷つけたとは思えないほど、彼女はけろりとそんなことを言う。
「戻る。宇美原さんを病院に連れていったら戻るから。だから、もう」
「矢名」
「宇美原さん、ごめん。短い間だったけど、幸せだった」
まるで初めから分かっていたというように、涼本が泣き笑いの顔で言った。涼本の言葉に満足したのだろう。「約束よ」と言って帰っていく彼女が忌々しい。
「宇美原さん、ごめん、俺のせいで」
肩の傷より、そんな風に傷つく涼本の姿が苦しいと思った。
「こんな時間に誰だ?」
白々しく穏やかな声を向けてやれば、意外にも相手も穏やかな声を返してきた。
「初めまして。涼本今日花といいます」
今は御簾今日花なのに、彼女はわざとそう名乗る。
「主人を返していただけませんか? 宇美原紀人さん」
明るいのに背筋を震わせるような声で、彼女はそう言った。そうだろうと思ってはいたが、彼女は既に宇美原のことを調べ上げている。
「お客さん?」
不安げに聞いてくる彼をこれ以上苦しめたくなかった。涼本の知らない人間だというフリで、わざとやれやれという調子で答えてやる。
「古い知り合いだ。大方俺にタダで仕事をさせようと思って来たんだろ」
二人で暮らすこの部屋に彼女を入れたくなかった。すぐに帰ってもらうのだと、玄関のドアを睨みつける。
「少し出てくる」
「こんな夜中に?」
「心配するな。浮気はしない」
わざと軽口で返してやれば、涼本が可愛らしく膨れてみせた。
「そんなこと言ってないでしょう?」
「俺は矢名一筋だからな」
インターホンを切り、さりげなく涼本をリビングに戻してドアを閉めてから玄関に向かった。
護身術も武道も学んでいる。自分が怪我をするつもりはないが、彼女にも怪我などさせない。彼女のためではない。小さな怪我でどんな訴えを起こされるか分からないのだ。
一つ息を吐いてドアレバーに手を掛ける。
「……っ!」
薄くドアを開けて出たところで刃物が向かってきた。素早くドアから離れて、彼女と距離を取る。見れば刃が折り畳めないタイプのアウトドアナイフだった。切れ味抜群。キッチンで使う包丁でも持ってくれば可愛げもあるが、彼女はそんなものは持ち合わせていないらしい。
「物騒だな」
何度か向かってきたのを避けて笑ってやれば、宇美原に刃を向けたままの彼女も無邪気に笑った。笑っていても怖い顔だ。小さな頃から全て思い通りにやってきたから、一般人の常識など通用しないのだろう。
「流石。反射神経いいんですね」
外廊下の明かりに照らされて、長い髪の彼女が楽しげに言う。それだけで、まともな話し合いができる相手ではないと分かる。
「矢名をもういらないと言ったのはお前だろ? 今更なんだ」
「やっぱり彼ほど優しい人はいないって気づいたの。夫婦だったんだから、そう簡単に絆は切れないでしょう?」
「それでまた浮気を繰り返しながら矢名と暮らしていくつもりか。勝手だな」
吐き捨てるように返さずにいられなかった。涼本は彼女が好きに生きるための道具ではない。彼女とはとっくに切れて、新しい人生を生きている。
「会いたいのはあなたじゃない。主人を出してくれませんか」
「矢名はもうお前の夫じゃない……!」
そこでもう一度刃物が向かってきた。素人の女の攻撃だ。難なく避けて、手首ごと封じてやる。
だがそこでガチャリと玄関が開いた。
「宇美原さん!」
刃物に気づいた涼本が、悲痛な声を上げて二人の間に入ろうとする。
「矢名!」
途端、彼女がなんとか宇美原の手を払おうと、刃物を持つ手に力を籠める。このままでは涼本に当たってしまう。そう思い、咄嗟に彼女の手を離して涼本を背中に庇う。
その瞬間、左肩にスッと痛みが走った。無茶苦茶に振り回されていた刃物が掠ったらしい。
「宇美原さん!」
たいしたことはないと思ったのに、シャツから血が滲んで赤く染まっていった。これくらいなんでもないと思う気持ちに反して、血の赤は大きくなっていく。
「もう、ダメだ。宇美原さんを巻き込まないでほしい」
泣きそうに涼本が言った。
「じゃあ、私のところに戻ってくれる?」
人を刃物で傷つけたとは思えないほど、彼女はけろりとそんなことを言う。
「戻る。宇美原さんを病院に連れていったら戻るから。だから、もう」
「矢名」
「宇美原さん、ごめん。短い間だったけど、幸せだった」
まるで初めから分かっていたというように、涼本が泣き笑いの顔で言った。涼本の言葉に満足したのだろう。「約束よ」と言って帰っていく彼女が忌々しい。
「宇美原さん、ごめん、俺のせいで」
肩の傷より、そんな風に傷つく涼本の姿が苦しいと思った。