たからもの、一つだけ。

 穏やかな日々は続いた。
 恋人になったというのに彼はどこまでも控えめで、どうすれば我が侭の一つも聞けるだろうと頭を悩ます。そんな悩みごとが幸せだった。
 離婚後すぐに恋人を作ったことに罪悪感があるようなので、しばらくは友人のような関係でもいいと思った。
 一度抱き合った。彼が好きだと言ってくれた。今はそれで充分。これからずっと二人の時間は続いていく。そう彼の気持ちを一番に考えて暮らしていく。彼も問題なく仕事に復帰して、二人の暮らしにはなんの問題もない筈だった。
 涼本が手のひらに擦り傷を作って帰ってきたのはそんな頃だ。
「消毒液ってあるかな」
 春秋物のトレンチコートを腕に掛けた彼が、そう言って帰ってきた。すぐにリビングの棚から出して彼に渡してやる。
「新品だね。開けない方がいいかな」
「馬鹿を言うな。どこを怪我したんだ? 俺がやるから見せてみろ」
「いや、本当にたいしたことはなくて」
 ほとんど強引に彼の手を取れば、擦り傷にまだうっすらと血が滲んでいた。割と広い傷で、握ったり開いたりすれば痛みが走るだろうと、宇美原の方が眉を寄せてしまう。
「一体どうしたんだ?」
 手当てしてやりながら聞けば、躊躇いながらも彼が話してくれた。誰かにつけられているような気がして早足で帰っていて、身体を隠そうとしてブロック塀に強く手をついてしまったらしい。
「つけられていた?」
「でも、やっぱり気のせいかも。俺をつけたところでメリットなんてないし」
 思わず険しい顔を見せてしまう宇美原を気遣うように、涼本が笑って話を終わりにする。宇美原も不安を煽るようなことを言うのはやめて、代わりにふと思い出して寝室から小さなキーホルダーを取ってくる。
「これを持っておけ」
「キーホルダー? 綺麗。きらきらしている」
 蛍光灯に照らして楽しげに眺めるから、そんな場合ではないだろうと小さく笑ってしまう。
「前に従業員の木川って男の話をしただろ? 奴が暇潰しに作った防犯ブザーだ。上のボタンを押すか、落として衝撃を与えるかすると、大きな音がして奴のパソコン室に連絡が行くようになっているらしい」
「凄い。木川さんて天才なの?」
「ただのパソコンオタクだよ」
 そう軽い調子で話を終えたが、探偵の自分はそれで納得する筈がなかった。
 翌日から調べれば犯人はすぐに挙がってくる。大手探偵事務所のスタッフだ。涼本は一般人だからベテランを使う必要はないと思ったのかもしれない。比較的経験の浅い男で、マンションを突き止めるのが目的で、涼本に危害を加えるつもりはなかったらしい。依頼料が高いことでも有名な探偵社だから、依頼主は宇美原の想像通りの人物だろう。
 涼本をいらないと言って切り捨てた筈が、今度は一体何をしようとしているのか。忌々しい気持ちでいたが、その後尾行はピタリとやんだ。涼本は逃げてきたと言ったが、このマンションの場所は突き止めてしまったのだろう。もう彼女は涼本に執着などないと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。迂闊だったなと息を吐く。
 しばらくは仕事に行くときも涼本を見守るようにして、木川にも防犯ブザーの件を話して、少しでも異常があれば連絡を貰えるようにしておこう。御簾今日花には金がある。会社には一切関わらないという条件で、父親は会社以外の財産の多くを彼女に譲っている。乱暴な言い方をすれば金で縁を切ったということで、実の父親でも扱いに困る女だということだ。そんな危ない女を涼本に宛てがった父親や会社の上司に、今更ながら怒りを覚える。一般人には想像もできないような金で、今度は何をするつもりだろう。
 当然負ける気はなかった。自分は探偵としても弁護士としても一流だ。大事なものを護れないほど弱い男ではない。好き勝手生きてきた女に、人生には思い通りにいかないこともあると教えてやればいい。今の涼本のパートナーは自分なのだ。
 そう強気でいたある晩のことだった。
 その日は珍しく、ソファーで涼本の方から身体を寄せてきた。
「どうした? そんなことをされたら、俺が豹変して襲われるかもしれないぞ」
「宇美原さんは優しいから、豹変しても俺がやめてほしいと言えばやめてくれるでしょう?」
「俺が優しい? 馬鹿を言うな。なんならこのまま試してやろうか?」
 そんな恋人特有のどうでもいいやりとりをしていたところで、突然玄関のチャイムが鳴った。一階のエントランスではない。誰かがオートロックを抜けて部屋の前まで来てしまったらしい。
「俺が出る」
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