たからもの、一つだけ。

 すぐに帰ればいいのに、その日は何故かビルの傍のベンチに腰を下ろしていた。
 暑さ真っ盛りだが、木陰のその場所は涼しくて心地いい。さっさと帰ればいくらでも快適な部屋が待っていると分かっているのに、なんとなく億劫で動けない。
 ツキンと痛みを感じて右肩に目を遣れば、シャツに血が滲んでいるのが分かった。駐車場での引き渡しの際、荒事に慣れていない秘書の不手際で、車に詰め込む前の犯人の男が暴れてしまったのだ。すぐに縛って猿轡までしてやったが、彼が拳を振り回したときにごつごつした指輪が当たってしまった。会社員に紛れるためにジャケットなしで来ていたから、まぁ仕方のない怪我だ。反省するほどではない。
 スーツ姿にあんなごつい指輪をしている男の話を信じるから詐欺になんて遭うのだと、自分の失態を差し置いて被害者たちに笑ってしまう。
 帰ったら捨ててしまおう。どうせたいして気に入っていたシャツでもない。
 そう、肩から視線を外して立ち上がりかけたときだった。
「あの」
 控えめな声と共に、目の前に影が差した。
「肩、血が出ています。よかったら、これを使ってください」
 そう言って真っ白なハンカチを差し出してきた彼を見上げて、らしくもなく言葉を失った。
 まだ二十代であろう男が、酷く優しい顔でこちらを見ている。派手な顔立ちではない。奥二重で、笑っているのに泣きそうにも見える顔。それにどこまでも地味な黒髪が合わさっている。どうということのない顔なのに、何故か目が離せない。
「俺、このビルの中の会社で働いているんです。少し待っていてもらえば、消毒液とか絆創膏とか持ってきますけど」
 首から下げたIDカードを胸ポケットにしまった、ごく普通の会社員だった。シャツとスラックス姿でいてもどこか近寄りがたいオーラを出している宇美原が、不機嫌に座っている様が怖くないのだろうか。ここは黙って通り過ぎるのが賢明だろうにと、逆に呆れて見つめ返してしまう。
「あの……」
「悪い。大丈夫だ」
 彼の目が不安げに揺れるのに気づいて、漸く我に返った。
「ちょっと見せてもらっていいですか。ああ、これは普通のクリーニングじゃ落ちないかも。ちょっと高めのコースを頼まないと」
 そんな主婦のようなことを言いながら、彼は躊躇いなく宇美原の隣に座ってしまった。
「いい。捨ててしまうつもりだった」
「ものは大事にしないとダメですよ。せっかくいいシャツなのに」
 何故かやりとりをしてしまう。説教じみたことを言われているのに、不思議と嫌な気持ちはない。
「シャツはともかく、怪我は手当てをした方がいい。待っていてください。俺、総務で働いているんです。総務の救急箱なんてほとんど誰も使わないから、一つ二つ取ってきてもばれないんですよ。探せば染み抜きスプレーもあるかもしれないから」
 早口で言って去っていこうとする彼を、思わず腕を引いて引き止めていた。そこで彼の左手にきらりと光るものがあるのに気がつく。
「気持ちだけで充分だ。それに、総務部の薬を盗んだあんたと共犯にされたくない」
 そんな冗談を言えば、一瞬意外そうに瞬いた彼が、またふわりと笑った。やはり少し泣きそうに見える笑顔に惹かれてしまう。
「面白い人ですね」
「面白いと言われたのは初めてだ」
「そうですか?」
 そこであっと気づいたように彼が腕時計に目を遣る。
「すみません。そろそろ戻らないと」
「待て。これを」
 先程つい受け取ってしまっていたハンカチを返そうとすれば、彼は笑ったまま顔の前で手を振った。
「それ、あげます。電車で帰るとき、肩を隠すのにでも使ってください」
 そう言って、ビルの中に戻っていこうとする。
「待て」
 彼の姿が離れる前に、立ち上がって呼び止めていた。
「何か?」
 不思議そうに首を傾げる彼に、つい聞いてしまう。
「綺麗な指輪だな。結婚しているのか?」
 何故そんなことを聞いたのか分からない。相手もそうだろう。きょとんとした顔を見せて、だがすぐにお人よしの顔に戻って返してくる。
「まぁ、一応。それほど高い指輪じゃないですけど」
 照れからなのか、少し困ったように笑って言って、彼は小さく頭を下げてビルの中に戻っていった。その男性にしては小柄な身体を、見えなくなるまで見つめてしまう。
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