たからもの、一つだけ。

 起こすのは可哀想で、寝室から毛布を持ってきて肩を覆ってやった。
「……ん。宇美原さん?」
 途端に気づいた彼が、身体を起こしてしまう。
「悪い。起こした」
 詫びる宇美原に首を振って、彼が何故かこちらに手を伸ばす。
「矢名?」
 そのままシャツを掴んで引き寄せられた。
「宇美原さん、俺……」
 聞いているこっちが辛くなるような声。
「俺、もう頑張らなくてもいいのかな」
「矢名」
 震える声で言われて、堪らずその細い身体を抱きしめた。腕の中の彼がぴくりと身体を震わせるのが分かるが、離したくない。どうか怯えないでほしい。これ以上のことはしないからと、その気持ちが伝わるのか、彼は目を閉じて宇美原の腕の中にいてくれる。
「お前は充分よくやった。頑張りすぎなくらいな」
 自然と言葉が出ていた。
「そんなこと」
「しばらく好きなことだけして過ごせばいい。金ならいくらでもある。お前の我が侭くらい聞いてやる」
「宇美原さん」
 ますますぎゅっとシャツを掴む彼の背を、怖がらせないようにゆっくりと撫でる。
「お前は誤解している」
 人を励ましたり慰めたりすることなんてなかった。落ち込むなら勝手に落ち込んでいればいいと蹴飛ばしていくタイプだった。けれど涼本が元気になってくれるなら、言葉を尽くしたいと思う。
「頑張り続けないと人に好かれないと思っているだろ? でも案外そうでもないんだ。俺は例えお前が一日中ソファーに転がっていても好きだと思うしな」
「俺はそんなナマケモノみたいな人間じゃない」
「分かっているよ」
 宇美原の言葉に彼が小さく肩を震わせて笑う。その様子に胸に擽ったいような感覚が湧き上がる。これが欲しかった。彼が傍で笑っていてくれれば他は何もいらない。そう改めて感じる。
「話したことがなかったけど、俺の事務所に木川という従業員がいるんだ。一日中パソコンを弄っていて、気が向いたときしか話さないし、おまけに仕事を頼むとご褒美をねだる。俺はそんな奴まで働かせてやっているんだ。優しいだろ?」
「意外」
 彼がまた小さく笑う。
「今度奴の部屋に連れていってやるよ。どこかの警備室みたいに機械が沢山あるから、それを見ながら奴の蘊蓄でも聞いてやろう?」
 彼が頷いてくれたから、理性が効かなくなる前にポンと頭に手を置いて離れた。先程よりだいぶ落ち着いた彼の顔を見れば、これでいいと思える。
「色々買ってきたけど、面倒だからピザでも取るか?」
「あの、宇美原さん」
 携帯で検索をしようとして、控えめに声を掛けられた。
「できれば、少し料理をしてもいいでしょうか? たいしたものはできないけど」
「俺はいいけど、休んでなくて大丈夫なのか?」
「もう平気です。何かしていた方が落ち着くし」
 それは本音のようだったから、彼に自由にキッチンを使ってもらうことにした。見ていられるとやりづらいだろうと一旦部屋に引っ込んだが、出てきてみれば、彼はずっと使っていなかった調理器具を水洗いして、手際よく料理を進めている。
 たいして時間も掛けずに、彼はキッチンテーブルに夕食の皿を並べていた。宇美原が適当に買ってきた惣菜をアレンジして、温め直して味噌汁を添える。パックで買ったままで放っておいたご飯を温めて、平たい皿にサラダと一緒に綺麗に盛りつけてくれる。この部屋でそんなお洒落な皿の使い方をされたのは初めてだ。
「宇美原さんはご飯を炊いたりしないんですか?」
「俺がそんな面倒なことをすると思うか? ここには炊飯器もない」
「そっか。どこを探してもないなと思ってはいたんですけど」
 そんなやりとりをしながら二人の夕食になった。碌なものがなかった冷蔵庫の中身で、よくこうもまともなものができたと感心する。
「旨いな」
 素直に言ったのに、涼本は眉を下げて困り顔を見せた。
「宇美原さん、いいものを食べ慣れているでしょう? 無理に褒めてくれなくても」
「いや、本当だ。久しぶりに食べた味だ」
 そう言えば少しは信じてくれたのか、彼の表情が和らぐ。
 まだ実家にいた頃、家族と食べるこんな食事が嫌いだった。いいレストランで大金を払って食べるか、家で酒を飲みながら適当に摘むか、自分はそれが好きなのだと思ってきた。だが彼が作ったものは、宇美原の心に温かいものを連れてくる。これが幸せというものなのかもしれないと、自分らしくもなくそんなことを思う。
「今度、近所のスーパーに連れていってください。材料を買って、宇美原さんの好きなものを作ってみたい」
「ああ。楽しみにしている」
 やはり好きだと思った。彼にこのままずっと傍にいてほしい。もう恋愛などしたくないと言うならそれでいい。このままこの部屋で護っていく。恋人として触れることができなくても、彼が身体を壊して泣いているよりずっといい。
 少し強がりはあっても、確かにそう思っていた。
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