たからもの、一つだけ。

 葛藤はあったようだが、弱った彼は宇美原の提案を受け入れた。宇美原の部屋が職場からそう遠くない場所にあったのもよかったのだろう。退院の日に少ない荷物を運び込んで、二人の生活が始まる。
 物置代わりに使っていた部屋にベッドと収納を入れて、約束通り涼本の部屋を用意してやった。
「病み上がりだから、俺に気にせず休んでいろ」
 隙あらば家事をしようとする彼を、その日もやんわりと止める。
「でも、もう身体は平気だし」
「じゃあ、テレビでも観ていろ。人間、何もせずに休む時間も必要だ」
「なんだか、宇美原さんには似合わない台詞ですね」
「どういう意味だ」
 そんな、どうでもいいことを言って笑う時間が宇美原の心に穏やかなものを連れてくる。こんな感情は初めてなのかもしれない。それほど涼本との時間が大切で愛おしい。
 昔から勉強もスポーツもできて容姿もよかった。実家も裕福で、さして苦労もせず弁護士になった。家族仲にも問題はなくて、会社員になった宇美原の弟は家庭を持って親孝行をしている。宇美原だけが捻くれた。子ども時代はその捻くれも隠していたが、社会人になってからは何もかも面倒になって家族と距離を置いた。弁護士時代に一度纏まった金を送って、それで決別したつもりでいる。探偵になってからは一度も会っていないし、この部屋の住所も携帯の連絡先も教えていない。
 そんな宇美原だから、家族など必要ないと思っていた。人肌恋しくなったら、その都度一夜の相手を見つければいい。金でなんでも買えるし、仕事もやりたい仕事だけやっていればいい。木川のような扱いやすい従業員も見つけた。これからも一人好きなように生きていけばいいと思っていた。それが、どうしても傍にいて護りたいものが現れてしまった。その大事な存在に、初めて好きな相手ができた高校生のように戸惑っている。そんな自分が不思議と嫌ではない。
「天気がいい。ドライブでも行くか?」
「いえ。今は外には出たくなくて」
「そうか」
 彼がふいに見せる哀しげな顔を、どうにかしてやりたいと思った。何を贈れば元気になってくれるのだろうと、一日中そんなことばかり考える。彼に白状する気はないが、どうしようもなく重傷だ。
 涼本の仕事の方は、彼の入院に責任を感じた上司が二週間の休暇を都合してくれていた。自分が押しつけた女のせいで身も心もボロボロになったのだから当然だろう。あまり忙しくない時期で、有休も多く残っていたから、涼本も素直に甘えることにしたらしい。とりあえずあと一週間はのんびりできる。
「買いものに行ってくる。何か欲しいものはあるか?」
 自室にいた宇美原がリビングに戻れば、涼本がテレビを点けるでもなくぼんやりしていた。ぽつんとソファーに座る彼の身体が、出会った頃より痩せたように見える。放っておけば小さくなって消えてしまいそうで、傍まで行って彼の手を取る。
「食べたいものでもいいし、読みたい本でもいい。何かないのか? 子どもが欲しがるような玩具が欲しいと言っても、今なら笑わないで買ってきてやる」
「宇美原さんに玩具屋さんは似合わないって」
 膝をつくようにして見つめる彼の顔が綻ぶ。ああ、今日は少し笑ったから進歩だ。
「何もいらない。ここにいさせてくれるだけで俺には充分」
「じゃあ、適当に食べものを買ってくるから寛いでいればいい。何かあったら連絡しろ」
 そう言って、宇美原は一人で部屋を出てしまう。本当は片時も離れず傍にいたいが、そうすれば彼の神経が張り詰めたままになりそうで、時々外出をして彼に一人の時間を作っていた。
 彼の立場になってみれば、居候というだけでも完全には寛げない。それに宇美原は彼にそういう意味で好きだと告げている。いつ襲ってくるかもしれない男との同居生活には、こちらがどれだけ誠意を示しても消えない恐怖があるだろう。それは仕方がない。時間を掛けて、彼の心を解いていくしか方法はない。
 その日も三十分で済む買いものに二時間を掛け、彼に充分一人の時間を作ってから帰宅した。
 リビングに入れば、緊張の糸が切れたように彼がソファーで眠っている。彼に部屋は与えているが、日の光が多く入るリビングの方が落ち着くのかもしれない。それなら好きにしてくれていい。
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