たからもの、一つだけ。
逃げられる心配はないと知って、堂々と近づいて声を掛ける。
「全然心配はないんです。本当は入院も必要なかったくらいだから」
彼はいつもの泣きそうな笑顔を見せた。笑っているが、今日の顔は哀しんでいる顔だと分かってしまう。おまけに酷く疲れている。
「何か欲しいものはあるか? 明るいうちに買ってくる」
勧められた丸椅子に座ったものの、すぐにそんなことを言ったのは、ベッド周りに全くと言っていいほど物がなかったからだ。ペットボトルの一つさえないサイドテーブルに、誰も見舞いに来る者はいなかったのだろうかと思ってしまう。
さりげなく観察したつもりが、彼には宇美原の気持ちが分かったのだろう。苦笑して首を振る。
「重症ではないし、一人で一階のコンビニにも行けますから。病院のご飯も普通に食べられますし」
「そうか」
「本当に、たいしたことはなくて……」
そこで言葉を止めた彼が、一度窓の外に視線を遣る。宇美原と涼本の間に、カーテンの隙間から入り込んでくる弱い風のような、静かな時間が流れている。
「俺、離婚したんです」
「知っていた」
木川からのメッセージに書かれていたことだった。もう手続きも済んで彼は独身に戻っている。
「そっか。探偵さんですもんね。流石」
そんなどうでもいいことで彼が小さく笑う。痛々しくて、今は無理に笑わなくていいと思ってしまう。
「今日花が事件を起こしたんですよ」
「矢名」
思わずベッドの上の手を握っていた。辛いのなら話さなくてもいいという思いは伝わったようだが、それでも、誰かに聞いてほしいというように彼が話し続ける。
「刃物を持ち出したから警察を呼ぶことになって」
話して少しでも救われるのなら、聞いてやればいい。そう思い直して、彼の手を握る指に力を籠めた。その指が細くて、何故もっと早く動いてやれなかったのだろうと後悔する。
「好きだった男性が、どうしても諦められなかったんですって」
また無理に笑って、彼は話し始めた。
夫がいながら元恋人が諦められなかった彼女は、彼の自宅まで行ってその妻に刃物を向けた。妻がいなければ二人で幸せになれると思ったのに、彼女を庇おうとした男に腹を立てて、怪我をさせてしまったらしい。
男は全治二週間の怪我。命に別状はないが近所の住人が警察を呼んでしまい、彼女は連行された。すぐに彼女の秘書や弁護士が呼ばれて、夫の涼本も向かうことになったのだが、興奮状態の彼女は彼の顔を見た瞬間、「結婚したいのはあなたじゃなかった」と叫んだという。
非のない涼本にはどこまでも酷な話で、色々と酷い仕事をしてきた宇美原さえ眉を寄せてしまう。
「俺たちをくっつけた上司と親族が、こっちが恐縮するくらい謝ってくれたんです。もう流石に夫婦を続けていくのは難しいと言ったら、それで構わないと言ってくれて。あっという間に手続きもしてくれて。今日花もお咎めなしで釈放されたみたいです。お金がある人って凄いですよね」
御簾今日花 の処遇はともかく、周りの人間が常識人だったことは救いだった。そう思う宇美原の前で、涼本が恥じるように窓の外へと視線を逸らす。
「二人で住んでいたマンションは、今日花の親族が買い取ってくれることになりました。俺が買った部屋だから頑張ってローンを払うつもりでいたんですけど、独り身じゃ侘しいし、離婚したら払い続ける気力もなくなってしまって」
「それが普通の感覚だろ」
金持ちの彼女の実家に頼ることなく普通の家族を作ろうとしていたのだなと、また一つ彼の努力を知った。彼女はそんな涼本の気持ちを少しは分かっていたのだろうか。いや、分かっていれば、涼本を傷つけるようなことは言えなかった。多分、自分のことしか考えられない人間なのだ。
「事件の後始末が全て終わったら、親族が買い取ったものを彼女に与えることになるみたいです。元々彼女が気に入って買った物件だったので」
「そうか」
「全然心配はないんです。本当は入院も必要なかったくらいだから」
彼はいつもの泣きそうな笑顔を見せた。笑っているが、今日の顔は哀しんでいる顔だと分かってしまう。おまけに酷く疲れている。
「何か欲しいものはあるか? 明るいうちに買ってくる」
勧められた丸椅子に座ったものの、すぐにそんなことを言ったのは、ベッド周りに全くと言っていいほど物がなかったからだ。ペットボトルの一つさえないサイドテーブルに、誰も見舞いに来る者はいなかったのだろうかと思ってしまう。
さりげなく観察したつもりが、彼には宇美原の気持ちが分かったのだろう。苦笑して首を振る。
「重症ではないし、一人で一階のコンビニにも行けますから。病院のご飯も普通に食べられますし」
「そうか」
「本当に、たいしたことはなくて……」
そこで言葉を止めた彼が、一度窓の外に視線を遣る。宇美原と涼本の間に、カーテンの隙間から入り込んでくる弱い風のような、静かな時間が流れている。
「俺、離婚したんです」
「知っていた」
木川からのメッセージに書かれていたことだった。もう手続きも済んで彼は独身に戻っている。
「そっか。探偵さんですもんね。流石」
そんなどうでもいいことで彼が小さく笑う。痛々しくて、今は無理に笑わなくていいと思ってしまう。
「今日花が事件を起こしたんですよ」
「矢名」
思わずベッドの上の手を握っていた。辛いのなら話さなくてもいいという思いは伝わったようだが、それでも、誰かに聞いてほしいというように彼が話し続ける。
「刃物を持ち出したから警察を呼ぶことになって」
話して少しでも救われるのなら、聞いてやればいい。そう思い直して、彼の手を握る指に力を籠めた。その指が細くて、何故もっと早く動いてやれなかったのだろうと後悔する。
「好きだった男性が、どうしても諦められなかったんですって」
また無理に笑って、彼は話し始めた。
夫がいながら元恋人が諦められなかった彼女は、彼の自宅まで行ってその妻に刃物を向けた。妻がいなければ二人で幸せになれると思ったのに、彼女を庇おうとした男に腹を立てて、怪我をさせてしまったらしい。
男は全治二週間の怪我。命に別状はないが近所の住人が警察を呼んでしまい、彼女は連行された。すぐに彼女の秘書や弁護士が呼ばれて、夫の涼本も向かうことになったのだが、興奮状態の彼女は彼の顔を見た瞬間、「結婚したいのはあなたじゃなかった」と叫んだという。
非のない涼本にはどこまでも酷な話で、色々と酷い仕事をしてきた宇美原さえ眉を寄せてしまう。
「俺たちをくっつけた上司と親族が、こっちが恐縮するくらい謝ってくれたんです。もう流石に夫婦を続けていくのは難しいと言ったら、それで構わないと言ってくれて。あっという間に手続きもしてくれて。今日花もお咎めなしで釈放されたみたいです。お金がある人って凄いですよね」
「二人で住んでいたマンションは、今日花の親族が買い取ってくれることになりました。俺が買った部屋だから頑張ってローンを払うつもりでいたんですけど、独り身じゃ侘しいし、離婚したら払い続ける気力もなくなってしまって」
「それが普通の感覚だろ」
金持ちの彼女の実家に頼ることなく普通の家族を作ろうとしていたのだなと、また一つ彼の努力を知った。彼女はそんな涼本の気持ちを少しは分かっていたのだろうか。いや、分かっていれば、涼本を傷つけるようなことは言えなかった。多分、自分のことしか考えられない人間なのだ。
「事件の後始末が全て終わったら、親族が買い取ったものを彼女に与えることになるみたいです。元々彼女が気に入って買った物件だったので」
「そうか」