たからもの、一つだけ。

 少し上り坂になったコンクリートの道を帰りながら、無理に笑おうとする様子に、もういいじゃないかと思う。
 歪な結婚生活でも、涼本は二人が幸せに暮らせるように努力した。彼の優しさを存分に受けても変わることのできなかった相手が異質だった。努力でどうにもならないのなら、新しい生き方を探せばいい。
「好きになってもらえないことを哀しいとは思いません。それはお互いさまだから。俺に、好きになってもらえるほどの魅力がないこともちゃんと分かっているし。それに」
「矢名」
 いつかと同じ、彼のマンションが見える場所で自然と足が止まった。ガードレールの前で向き合えば、疎らに走り抜けていく車の音が聞こえる。
「俺は」
 もどかしい時間を続ける気はなかった。涼本は好きになってもらえない人間なんかではない。それを知ってほしい。
「俺は矢名のことが」
「待って」
 想いを告げようとした瞬間、彼に遮られた。酔いから醒めたように、肩に触れようとした手を払われる。
「それ以上言わないでください」
「矢名?」
「聞いたらルール違反になる。もうこんな風に会えなくなってしまう」
 意外な台詞に驚いて、正面から彼の顔を見つめた。酔ってはいない。それなら出てきた言葉は本心だ。
「俺の気持ちを知っていたんだな」
 聞けばふいと顔を逸らされた。宇美原自身、今漸く知ったような気持ちなのに、彼の方が先に気づいていた。だがそれなら話が早い。今は体裁などどうでもいい。
「ルール違反ということは、少しは俺と同じ気持ちでいてくれたということか?」
「そんなことない!」
 必死で否定する彼を抱きしめてしまいたかった。だが先回りで距離を取って、鋭い目で見上げられる。
「俺はルール違反はしない」
「それなら離婚すればいい。離婚して俺の傍にいろ」
 もう隠すつもりはなかった。
「好きだ」
「宇美原さん」
「俺のものになれ」
 言い切ると同時に、彼は難しいことを言われてなす術がなくなった子どものような顔を見せる。
「同じ気持ちなら迷うことはないだろ? どうせ嫁は浮気し放題の女だ。浮気相手にくれてやればいい」
「やめて!」
 思わず彼女を悪く言えば、彼がきっと睨み上げてくる。宇美原が怯まないと分かると、素早く背を向けてしまう。
「俺には無理です」
「矢名!」
 呼ぶのに構わず、彼はマンションの敷地を走ってエントランスドアを潜ってしまった。すぐに携帯を鳴らしたい衝動を抑えて、拳を握って一つ息を吐く。
 気持ちを自覚した瞬間だった。このところのもやもやの正体が分かれば、霧が晴れたように心が楽になる。
 嫌いだとも、可能性がゼロだとも言われていない。
 大人しくタクシーで帰りながら、少しも落ち込んでいない自分に気がつく。
 欲しものはみな手にしてきた。これくらいで、せっかく自覚した気持ちを諦めたりはしない。自分はその程度の男ではない。
『また誘う。また二人で会おう』
 彼が読まずに消すことはないと分かっているから、短くメッセージを入れた。今夜は返事がなくてもいい。こちらが今夜で終わりにする気はないと知ってもらえれば充分だ。
 高速で流れるビルが立ち並ぶ景色を眺めながら、宇美原は逆に、進む道が決まった気持ちに満足していた。
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