たからもの、一つだけ。

 なんでもないフリで食事に誘ったが、初めて断られてしまった。妻の体調がよくないと一応の理由を添えて、彼は丁寧な断りのメッセージを返してくる。
 衝動的とはいえ、あんな風に触れるのはよくなかった。そう珍しく後悔を抱えていた。だが今更引こうとは思わない。よく分からないが、ここで終わりになって堪るかという気になっている。
「……あ? 知らねぇよ。なんでもかんでも経費にしようとするからそうなるんだろ? ……分かったよ。とりあえず捕まらない程度には修正してやる」
 木川の部屋にいるときに掛かってきた電話に、宇美原は面倒な気持ちを隠しもせずに応じた。正直仕事をする気分ではないが、長く世話になってきた人物の頼みだから断れない。
 何故か事務所に一人いるのが嫌になって、このところ用もないのに木川の部屋に入り浸っていた。元々宇美原の持ちものなのだから文句は言わせないと思っていたが、木川は別に宇美原がいようといまいと構わないらしい。
「仕事に行くの? どこ?」
 パソコン部屋から出てきた彼に聞かれて、隠す理由もないので素直に答えた。
「T社だよ。帳簿を見に行ってやるんだ」
「それなら丁度いい。帰りにRホテルに行くといい。いいものが見られると思うよ」
「いいもの?」
「うん。今日涼本今日花が浮気相手と会うんだ。お昼から密会だから、五時には満足して出てくるんじゃない」
 こともなげに言って、彼はテーブルにあった差し入れのチキンを手にしてパソコン部屋に戻っていく。
「出てくるまで張り込めって言うのか?」
「探偵なんだからそれくらいできるだろ?」
 この頃よく喋るようになった彼に言われて、珍しく言い返せなかった。彼は涼本矢名の調査が気に入ったらしく、最近は昼飯程度の報酬で情報をくれる。
 涼本今日花は結婚前に振られたという男性にもう一度迫り、関係を持っていた。彼にも妻がいるが、家庭は壊さないと言い、会うときの費用は全て彼女持ちという条件で会い続けているという。男も男だ。
 帳簿の仕事を終えて、木川の言う通りホテルの駐車場で待機していれば、しっかり二人の浮気写真が撮れてしまった。一目で分かるほど美人の彼女が、好きな男と腕を組んで車に乗り込む様子にため息が漏れる。
 これは涼本には見せられない。別に彼を傷つけたい訳ではないのだ。
 でもそれなら自分はどうしたいのだと悩んで数日。意外にも彼の方から連絡が入った。
「飲みたい気分なのですが、今夜付き合ってもらえませんか?」
 そう言われて断る理由はない。
 慣れた居酒屋に落ち着くと、その日の涼本は碌に料理も食べずに日本酒だけを飲み続けた。
「飲みすぎだ」
 人の体調など心配するタイプではないのに、更に注文しようとする彼をつい止めてしまう。
「これくらい平気です」
「何があった?」
 席までやってこようとする店員を手を振って止めて、それから涼本が手にしたままでいたメニューを取り上げて遠ざけてやった。一度聞いてダメなら諦めようと思ったのに、その日の彼はすぐに弱音を吐いてくれる。
「好きじゃないのはお互いさまだったから、少しでも家族になれればいいと思ったんですよ。家事も自分がやればいいと思ったし、辛い失恋をした彼女の気持ちも分かろうとした。異性として見てもらえなくてもいいと思った。でも」
 堪らずと言った様子でまた酒を頼もうとする彼の手を取って、その夜はもう店を出てしまうことにした。肩を抱けばまた逃げていきそうな気がして、転ばないように注意しながら隣を歩いていく。帰り道のコンクリートを行きながら、彼が話し続ける。
「惹かれる男性って、多分優しさとかそういうことじゃないんですよね。自分に男としての強さも魅力もないことは分かっていたつもりでした。でも流石に他の男性と会うことを隠しもしないでいられると、俺たちの関係はなんなんだって思ってしまって」
 なんだと思った。宇美原が隠そうとしたことなど、彼はとっくに知っていたらしい。
「隠す価値もない男ってことなのかなって」
13/38ページ
スキ