たからもの、一つだけ。
自分たちが使うホームに戻るために二人でまた長い階段を上りながら、彼が労うように言う。
脚が悪い子どものためにずっと車椅子移動なのだと、階段を下りる間に母親が言った。よくベビーカーと間違われて、甘やかすなと叱られたりで大変なのだと、宇美原が考えたのと同じことを零して、起こさないように眠ったまま運べてよかったと感謝されたのだ。
「あの旅行の人たちが気づいて先にエレベーターに乗せてあげたらよかったんでしょうけど、でもまぁ、目的の電車に間に合ってよかった。あの路線は夜は本数が少ないから」
誰を責めるでもなく静かに彼が言う。
「よく気づいたな。あの女が困っているなんて、俺は考えようともしなかった」
漸く自分たちが使うホームに回って、電車を待つ間に本音を告げた。
「俺もたまたまですよ。普通のベビーカーより大きかったし、少し前にテレビで子ども用車椅子の特集を観ていたから分かっただけで。それに」
案内放送が鳴って電車がゆっくりと入ってくる。その音に負けてしまいそうな、耳を澄まさなければ聞こえない声で、彼は意外な台詞を口にした。
「俺の力じゃ、一人でホームまで運ぶことはできなかったから」
謙遜ではなく、自分自身にうんざりしているという言い方だった。
「あの母親はこれから電車に乗るから、抱き上げて起こして子どもの機嫌を悪くしたくなかった。それは分かった。でも俺だけだったら、できたのはせいぜい車椅子を運ぶことくらいで、子どもは起こしてあの人が抱いて下りる羽目になった」
「そんな細かいことまで考える必要があるか? お前はあの女の手助けをした。それでいいんじゃないのか?」
「ううん。子どもが起きていたらどうなっていたと思う? 電車に乗った途端にぐずって、あの母親が肩身の狭い思いをする。もしかしたら途中で降りる羽目になったかもしれない。それじゃ手助けの意味がない」
彼の方がぐずるような言い方をした。何にそこまで拘っているのか分からなくて、宇美原の胸にももやもやが溜まっていく。
「宇美原さんは凄い。頭だけじゃなく体力もある。見た目だっていい。同じ男として悔しいくらい……っ」
無性に苛々して、言葉の途中で抱きしめていた。周りに人がいようがそんなことはどうでもいい。
何故そこまで自分の価値を低く思うのだろう。涼本は綺麗な心を持った何一つ恥じることのない人間だ。何がそんなに苦しいのだろう。この自分が惹かれているというのに、それでは足りないのだろうか。
彼の子ども時代なら調べ上げている。兄が優秀だっただけでなく、涼本は喘息持ちで、発作で家族に迷惑を掛けてしまったことを気に病んでいるらしい。そんなもの、子どもが気にすることではない。
「宇美原さん、離して。こんなところで」
「じゃあ人がいないところならいいのか」
宇美原まで面倒なことを口にしていた。この男といると自分まで酷く厄介な存在になる。それなのにその身体を離したくない。もっと面倒なところまで関わらせてほしい。彼を縛るコンプレックスが好きでもない女との結婚に繋がったのなら、どう開放してやればいい? そんなことを思ってしまう。
「宇美原さん……」
腕の中で怯えるように彼が震えて、はっと我に返った。そこで丁度止まった電車がドアを開けて、乗客がぱらぱらと降りてくる。
「……面倒になった。俺はタクシーで帰る」
彼を突き放すようにして、宇美原はまたホームの階段を上っていた。背中から名前を呼ばれた気がしたが、振り向いたところで何を言えばいいのか分からない。ぶつかりそうになる人間にまた苛々を募らせながら、なんとか建物を出た。だが悪いことは重なるもので、駅前で捕まえて乗り込んだタクシーが事故渋滞に嵌ってしまう。
「何をやっているんだ、俺は」
いつまでも帰り着かない車内で頭を抱える羽目になった。
脚が悪い子どものためにずっと車椅子移動なのだと、階段を下りる間に母親が言った。よくベビーカーと間違われて、甘やかすなと叱られたりで大変なのだと、宇美原が考えたのと同じことを零して、起こさないように眠ったまま運べてよかったと感謝されたのだ。
「あの旅行の人たちが気づいて先にエレベーターに乗せてあげたらよかったんでしょうけど、でもまぁ、目的の電車に間に合ってよかった。あの路線は夜は本数が少ないから」
誰を責めるでもなく静かに彼が言う。
「よく気づいたな。あの女が困っているなんて、俺は考えようともしなかった」
漸く自分たちが使うホームに回って、電車を待つ間に本音を告げた。
「俺もたまたまですよ。普通のベビーカーより大きかったし、少し前にテレビで子ども用車椅子の特集を観ていたから分かっただけで。それに」
案内放送が鳴って電車がゆっくりと入ってくる。その音に負けてしまいそうな、耳を澄まさなければ聞こえない声で、彼は意外な台詞を口にした。
「俺の力じゃ、一人でホームまで運ぶことはできなかったから」
謙遜ではなく、自分自身にうんざりしているという言い方だった。
「あの母親はこれから電車に乗るから、抱き上げて起こして子どもの機嫌を悪くしたくなかった。それは分かった。でも俺だけだったら、できたのはせいぜい車椅子を運ぶことくらいで、子どもは起こしてあの人が抱いて下りる羽目になった」
「そんな細かいことまで考える必要があるか? お前はあの女の手助けをした。それでいいんじゃないのか?」
「ううん。子どもが起きていたらどうなっていたと思う? 電車に乗った途端にぐずって、あの母親が肩身の狭い思いをする。もしかしたら途中で降りる羽目になったかもしれない。それじゃ手助けの意味がない」
彼の方がぐずるような言い方をした。何にそこまで拘っているのか分からなくて、宇美原の胸にももやもやが溜まっていく。
「宇美原さんは凄い。頭だけじゃなく体力もある。見た目だっていい。同じ男として悔しいくらい……っ」
無性に苛々して、言葉の途中で抱きしめていた。周りに人がいようがそんなことはどうでもいい。
何故そこまで自分の価値を低く思うのだろう。涼本は綺麗な心を持った何一つ恥じることのない人間だ。何がそんなに苦しいのだろう。この自分が惹かれているというのに、それでは足りないのだろうか。
彼の子ども時代なら調べ上げている。兄が優秀だっただけでなく、涼本は喘息持ちで、発作で家族に迷惑を掛けてしまったことを気に病んでいるらしい。そんなもの、子どもが気にすることではない。
「宇美原さん、離して。こんなところで」
「じゃあ人がいないところならいいのか」
宇美原まで面倒なことを口にしていた。この男といると自分まで酷く厄介な存在になる。それなのにその身体を離したくない。もっと面倒なところまで関わらせてほしい。彼を縛るコンプレックスが好きでもない女との結婚に繋がったのなら、どう開放してやればいい? そんなことを思ってしまう。
「宇美原さん……」
腕の中で怯えるように彼が震えて、はっと我に返った。そこで丁度止まった電車がドアを開けて、乗客がぱらぱらと降りてくる。
「……面倒になった。俺はタクシーで帰る」
彼を突き放すようにして、宇美原はまたホームの階段を上っていた。背中から名前を呼ばれた気がしたが、振り向いたところで何を言えばいいのか分からない。ぶつかりそうになる人間にまた苛々を募らせながら、なんとか建物を出た。だが悪いことは重なるもので、駅前で捕まえて乗り込んだタクシーが事故渋滞に嵌ってしまう。
「何をやっているんだ、俺は」
いつまでも帰り着かない車内で頭を抱える羽目になった。