たからもの、一つだけ。

「好きに飲みに行ったんだ。いい大人なんだから転がしておけばいいだろ?」
「一応夫ですから」
 特に不満という訳でもなさそうに言って、彼は本当に席を立ってしまう。レジで会計をしようとするから、横から素早くカードで支払いを済ませてやった。
「もう。今夜は俺が払うって言ったでしょう?」
 店を出ながらわざと拗ねたようにいう彼が、なんだか可愛らしいと思ってしまった。同性に言う言葉ではないが、それ以上にしっくりくる言葉が見つからない。さっき妻のために帰ると言った彼に、自分は嫉妬していた。それも認めざるを得ない。
「また会ってくれないか? できれば週に一度か二度。あんたの都合のいい日でいい」
 近所だから彼の家まで徒歩で送ることにして、歩きながら言った。初めは男だから送られる必要はないと言っていた彼も、次第に会話が楽しくなってきたのか、隣を歩く宇美原を帰そうとはしなくなる。
「俺と飲みに行っても、メリットなんてないでしょう?」
「メリットが欲しいんじゃない。お前といると落ち着く」
「どういう意味で?」
 アルコールのせいで普段より少し砕けた言葉を返す彼が、ガードレールに背を寄せて足を止めた。その目の前にある高層マンションが彼の自宅なのだろう。思ったよりいい家だ。
「邪気も計算もないっていうかな。とにかく傍にいると楽でいい」
 珍しく本心をそのまま口に出せば、彼がきょとんとして、それからすぐに眉を下げて笑った。泣きそうに見えるが、今のは嬉しいときの顔だとなんとなく分かる。
「嬉しいな。俺、褒められるのが好きなんだ。子どもの頃、みんな兄さんばっかり褒めていたから」
「へぇ」
「今日花とその家族に褒められて、うっかり結婚までしてしまった」
 少し遅れてアルコールが効いてきたのか、彼はそんな言い方をした。エントランスまで送った方がいいかと腕に触れようとして、それは素早く躱されてしまう。
「また、誘ってください。妻は来週もきっと出掛けますから」
 そう言い残して、彼は手を振ってマンションの中へと消えていった。自動ドアが閉まるのを見届けて、宇美原はタクシーを拾うために大通りまで戻っていく。
「うっかり結婚、か」
 呟いて、それなら今はどんな夫婦生活なのか気になった。ベッドで抱き合うことはあるのかと、流石にそれは聞けないし、木川にも調べられないだろう。
 そこまで考えて眉を寄せる。一体自分は彼に何を期待しているのだ。女を抱いたことのない綺麗な身体か、誰も好きになったことのないまっさらな気持ちか。どちらにせよ酷く馬鹿げている。
「褒められるのが好き、か」
 やってきたタクシーに手を上げて乗り込みながら、おかしな気持ちを抱えることになった自分にまた困惑していた。
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