たからもの、一つだけ。

 宝物という言葉が嫌いだった。
 幼い頃、さして価値のない石や折り紙を宝物だと言って大事にする周りの子どもが大嫌いだった。今にして思えば自分も子どもだっただろうにと笑ってしまうが、三十を過ぎてもやはりその言葉は嫌いなままだ。欲しいものはなんでも買える。そしてすぐに飽きてしまうから、宝物と呼べるものがない。それが今の理由なのだろう。
 タクシーで今日の仕事先に向かいながら、宇美原紀人うみはらのりとはふとそんなことを考えていた。
 大手弁護士事務所を辞めて私立探偵になって三年と少し。元から弁護士が清廉潔白な職業だとは思っていないし、上に諂って出世する気もなかったが、それでも組織で働くには最低限のルールがある。その点でやはり自分は不合格だろうと思ったから、退職にも起業にも躊躇いはなかった。受ける仕事と依頼人を選べば、以前よりずっと楽に暮らしていける。
 一応探偵ということにはなっているが、探偵の代名詞のような浮気調査や身辺調査に興味はなかった。主婦が少ない預貯金を握りしめて相談に来るような夫の浮気調査なら、人の痛みが分かるお優しい探偵に頼めばいい。宇美原はそんなもの持ち合わせていない。
「お客さん、この辺りでいいですか? それともビルの前まで行きますか?」
「ここでいい」
 運転手の声に我に返った。都心のオフィスビルが並ぶ一角。車移動は逆に不便だと思ったから置いてきたが、タクシーで優雅に仕事に向かう探偵も珍しいだろうと少しおかしくなる。だが今日の依頼主は底なしに金を持っているから、費用として請求してやれば済む話だ。
「ありがとうございました」
 面倒な釣銭を断れば、たかが数百円で運転手が上機嫌になって、これが世間でいうところの『いいこと』なのだろうと小さく笑ってしまった。高層ビルを見上げることもなく、今日の仕事先に入っていく。
 頼まれた仕事はさして難しいものではなかった。
 堂々と正面から入ったこのビルは、地下から一、二階にかけては細々としたショップやコンビニ、そこから二十階まで企業のオフィスが入っている。オフィス階には従業員のロッカー室や、会社員向けの食堂もいくつかある。そしてその更に上には一階から直通エレベーターで行けるフロントがあり、日本でも有数の高級ホテルの客室が並んでいた。宿泊料が高いのでも有名で、オフィス階で働くほとんどの人間が、同じビルにいながら定年まで足を踏み入れることのないであろう場所。
 そのホテルの経営者が、今はこのビルのオーナーでもあった。若いやり手のオーナー。彼の秘書を通しての依頼は詐欺を捕まえること。オフィス階の食堂の傍に休憩スペースがあるのだが、そこで会社員相手に詐欺をしている男がいるというのだ。
 ビルの性質上高級感のあるテーブルやソファーが並んでいるから、外から来た人間は錯覚するのだろう。その外部から来た相手にヘッドハンティングを持ちかけて紹介料を騙し取る。犯人は口の上手い男なのか、将来に不安を抱えた被害者たちは、安くはない金を払ってしまう。だがそんな被害者を哀れむほど、このビルのオーナーは暇ではない。
 問題はこのビルの休憩スペースを使われたことだった。犯人の男はわざわざ別のビルに勤める会社員を呼び出し、信用を得るためにわざとこのスペースを利用する。あなたを欲しいと言っているのはこのビル内の一企業だと、そんな出任せも言うらしい。入居する企業からすればいい迷惑だし、ビルの管理問題にもなる。
 まだこのビルを継いだばかりのオーナーは、高価な果物の葉についた虫のような犯人にカチンときた。というだけであればまだ可愛げもあるのだが、あろうことか彼を罰してみたいと言い出した。
 詐欺の男を捕まえて、正規のルートではなくオーナーのお友達である某警察関係者に引き渡す。そして、例え数日後にニュースでその男の死体映像が流れても口を噤んでいること。まぁ、死体というのは言葉遊びだろうが、その条件にみな恐れをなすから、他には頼めず宇美原のところに依頼が来たという訳だ。全く、金持ちのお遊びというのは人の生き死にまで左右するから厄介だ。そう他人事のように思いながら仕事に掛かる。
下調べは完璧だったから、仕事は問題なく進んだ。休憩スペースで、まずは今日の被害者になる筈だった会社員に事情を話して、いくらか金を渡して帰ってもらう。自分の愚かさをばらす訳はないから口止め料などいらないとも思うが、その後の展開を考えれば念には念を入れておいて損はない。
 その後、カモが来なくなった犯人に近寄り、同僚がじゃれ合うフリをしながら自由を奪ってオーナーの秘書が待つ地下駐車場まで連れていく。
 探偵を始めてから護身術と武道をいくつか習っていたから、三十そこそこの中肉中背の男の拘束など簡単だった。計画通りに事を済ませて、秘書二人と犯人が乗る黒いワンボックスカーを見送る。犯人がその後どうなろうと、宇美原の知ったことではない。自業自得というものだ。
 楽な仕事だった。これで以前の弁護士業の何日分の金が手に入るのだろう。そんなことを思いながら、目立たないビルの裏口を抜ける。
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