夕焼け色の道標
できるだけ早く退職したいと言えば、白石から「今日辞めていい」と返ってきた。
「誤解しないで。あなたが必要ないとか、そういうことじゃないの。ただ、時間を置いたら結局新太と離れられなくなりそうで怖いのよ」
そう言われて驚いたが、彼女らしいとも思った。白石は社長をやっているだけあって切れ者で、人を見抜く目も備えているのだ。
「あなたと新太の関係には危ういものを感じていたの。それも、あなただけが不幸になるような危うさをね」
隠すことなく言って、それから少しだけ過去の話をしてくれる。
「以前、男性アイドルグループの一人に嵌った女性がいてね。解散したあともそのメンバーをずっと追っかけていて。最終的に、中年になって格好よさも何もなくなったような男にお金を騙し取られたのよ。一千万ね」
「一千万……」
想像よりずっと規模の大きな話に驚いてしまう。
「若いときに一気に売れたから、努力なんてしないタイプだった。だから見た目も相応に衰えているのに、彼女には全盛期のフィルターを通して見えるらしくてね。あの頃手の届かない存在だった彼が私に助けを求めてくれている。助けなければって思ったらしいのよ」
そこで一度話をやめたものの、慈のためだと思ったのか、彼女は厳しい話を続けてくれる。
「結局お金にだらしなくて見た目もよくない中年男に抱かれた挙げ句、一千万取られて終わりよ。それでもいい夢が見られたって言っているんだから救いようがないわよね」
やりきれないというように彼女が眉を寄せる。もしかしたら、割と近い友人の話なのかもしれない。
「新太は実家が裕福だし落語の実力は本物だから、少なくともお金を騙し取るなんてことはないと思う。でも、同じくらいあなたの時間は大事だと思う」
彼女がまっすぐ慈の目を見つめる。
「あなたたちがどこまでの関係なのかは知らない。でも、あなたにとってはもう切ってもいい関係だと思う。新太には上手く言っておくから、今日私物を持ち帰って、二度と来ないことにするといいわ。必要な手続きは郵送でなんとでもなるから」
「……ありがとうございます」
自分は周りの人間に恵まれているのかもしれないと思った。快人だけでなく、彦音も白石も原田もみな新太との関係を案じて助言してくれた。みなに言われるほど、新太との関係は歪なものなのだ。それでもいいと思う時期もあったが、きっともうその時期は過ぎてしまった。好きで好きで仕方なくて、嫌いになるまで好きでいた。だからもう気が済んだ。こうまでしないと自分の気持ちに決着がつけられなかった。望む結末ではなかったけれど、もうそれでいいと思える。
「お世話になりました」
白石の言う通りにしようと思った。もう新太には会わない方がいい。
「こっちこそ。加野妙子のクリニックの件は助かったわ。無理をさせてごめんね」
「いえ」
人はこんな一言で救われるのだと思った。新太はくれることがないであろう言葉。恨む気はない。彼は普通の人間の思考とは別のところで生きている。慈がどれだけ彼に惚れていようと、そのためにどれだけの犠牲を払おうと、彼が心を痛めることはない。目の前の慈が普通に働いていれば、その内面まで考えるのは自分の仕事じゃない。きっとそう思うのだろう。
そんな彼が好きだった。彦音と暮らして名古屋から戻ったあと、すぐに気持ちを断ち切ろうとすれば、いずれまた彼が恋しくなっていた。だからとことん傍にいられてよかった。嫌いになるまで好きでいられてよかった。そう思うことで、なんとか気持ちを立て直す。どれほど納得していても、やはり恋を一つ失えばダメージはある。新太のために失ったものを思えば、何も得るものがなかった恋にやるせないものを感じる。そんな気持ちを乗り越えるには、まだ時間が必要なのだろう。
なんとなく事情を察していたらしい原田にも挨拶をして、事務所の建物に一礼をして、もう二度と訪れることのない場所を離れた。
「誤解しないで。あなたが必要ないとか、そういうことじゃないの。ただ、時間を置いたら結局新太と離れられなくなりそうで怖いのよ」
そう言われて驚いたが、彼女らしいとも思った。白石は社長をやっているだけあって切れ者で、人を見抜く目も備えているのだ。
「あなたと新太の関係には危ういものを感じていたの。それも、あなただけが不幸になるような危うさをね」
隠すことなく言って、それから少しだけ過去の話をしてくれる。
「以前、男性アイドルグループの一人に嵌った女性がいてね。解散したあともそのメンバーをずっと追っかけていて。最終的に、中年になって格好よさも何もなくなったような男にお金を騙し取られたのよ。一千万ね」
「一千万……」
想像よりずっと規模の大きな話に驚いてしまう。
「若いときに一気に売れたから、努力なんてしないタイプだった。だから見た目も相応に衰えているのに、彼女には全盛期のフィルターを通して見えるらしくてね。あの頃手の届かない存在だった彼が私に助けを求めてくれている。助けなければって思ったらしいのよ」
そこで一度話をやめたものの、慈のためだと思ったのか、彼女は厳しい話を続けてくれる。
「結局お金にだらしなくて見た目もよくない中年男に抱かれた挙げ句、一千万取られて終わりよ。それでもいい夢が見られたって言っているんだから救いようがないわよね」
やりきれないというように彼女が眉を寄せる。もしかしたら、割と近い友人の話なのかもしれない。
「新太は実家が裕福だし落語の実力は本物だから、少なくともお金を騙し取るなんてことはないと思う。でも、同じくらいあなたの時間は大事だと思う」
彼女がまっすぐ慈の目を見つめる。
「あなたたちがどこまでの関係なのかは知らない。でも、あなたにとってはもう切ってもいい関係だと思う。新太には上手く言っておくから、今日私物を持ち帰って、二度と来ないことにするといいわ。必要な手続きは郵送でなんとでもなるから」
「……ありがとうございます」
自分は周りの人間に恵まれているのかもしれないと思った。快人だけでなく、彦音も白石も原田もみな新太との関係を案じて助言してくれた。みなに言われるほど、新太との関係は歪なものなのだ。それでもいいと思う時期もあったが、きっともうその時期は過ぎてしまった。好きで好きで仕方なくて、嫌いになるまで好きでいた。だからもう気が済んだ。こうまでしないと自分の気持ちに決着がつけられなかった。望む結末ではなかったけれど、もうそれでいいと思える。
「お世話になりました」
白石の言う通りにしようと思った。もう新太には会わない方がいい。
「こっちこそ。加野妙子のクリニックの件は助かったわ。無理をさせてごめんね」
「いえ」
人はこんな一言で救われるのだと思った。新太はくれることがないであろう言葉。恨む気はない。彼は普通の人間の思考とは別のところで生きている。慈がどれだけ彼に惚れていようと、そのためにどれだけの犠牲を払おうと、彼が心を痛めることはない。目の前の慈が普通に働いていれば、その内面まで考えるのは自分の仕事じゃない。きっとそう思うのだろう。
そんな彼が好きだった。彦音と暮らして名古屋から戻ったあと、すぐに気持ちを断ち切ろうとすれば、いずれまた彼が恋しくなっていた。だからとことん傍にいられてよかった。嫌いになるまで好きでいられてよかった。そう思うことで、なんとか気持ちを立て直す。どれほど納得していても、やはり恋を一つ失えばダメージはある。新太のために失ったものを思えば、何も得るものがなかった恋にやるせないものを感じる。そんな気持ちを乗り越えるには、まだ時間が必要なのだろう。
なんとなく事情を察していたらしい原田にも挨拶をして、事務所の建物に一礼をして、もう二度と訪れることのない場所を離れた。