夕焼け色の道標
その後も何か大きく変わることはなかった。慈がマネージャーとして新太の傍にいることは変わらないし、快人が電話に出たことについて、新太が何か聞いてくることもない。
元々慈のプライベートになど興味はないのだ。ただ、慈が彼の依頼を断ったことを根に持つタイプではないから、そこは助かったと思う。助かった。それはもう、惚れた相手に思う言葉ではない。一体自分はどうしてしまったのだろう。そう思ううちに時は過ぎていく。大人が過ごす毎日は、何故こんなにも早いのだろう。
「慈、ちょっといい?」
珍しく改まって声を掛けられたのは、事務所で彼の仕事の経費精算を終えたときだった。
「何か?」
「ちょっと話したいことがあるんだ。今日、家まで送ってもらっていいかな?」
「……はい。もちろん」
新太は元々車の運転が好きではないタイプだったが、CMの仕事が決まってからは全くと言っていいほど運転しなくなった。事務所の人間の車かタクシーでしか移動しない。万が一人身事故でも起こせば、こちらに非がなくてもイメージダウンで企業に迷惑を掛けてしまうからだ。
慈の方は車通勤が許されているから送るのは問題ないが、話したいこととはなんだろう。事務所に寄ることを嫌がる彼が、今日は仕事終わりに一度事務所に行くと言い出したのは何故だろう。考えるほど嫌な予感が募っていく。
家に帰る間は何も言わず、彼が話し出したのはマンション前に車を止めたところだった。
「実は慈に報告があって」
彼らしくもなくそんな前置きがあったあとで、続いたのは驚くような言葉だ。
「再婚しようと思うんだ」
「え……」
流石に何を言っているのか分からなかった。
「女性と二人でいるところを写真に撮られてしまってね。今週中に熱愛報道の記事が出る。だからもう面倒だから結婚してしまおうと思って」
分からないが、理解できないほど混乱はしていない。
「それは加野さんではなく……?」
「うん。全く別の女性」
あっけらかんと彼は言った。
「週刊誌の記事の件があるから、社長と原田さんへの報告が先になってしまったけど、その次は絶対慈に言おうって決めていて」
彼が運転席に顔を向けて微笑む。まるで、テストでいい点が取れたから褒めてと言っている子どものような顔。その顔に、背中にゾワリとした感覚が這い上がる。
「ほら、前に結婚したときは事後報告になってしまって傷つけてしまったみたいだから、次は気をつけようって、ずっと思っていたんだ」
「……そう、ですか」
急激に湧いた怒りが、相手にぶつける前にまた急に冷えた感覚だった。
この男はズレている。DV報道のとき、社長や原田や慈が彼のイメージと名誉を護るためにどれだけ苦労したと思っているのだ。慈がどんな思いであの一ヵ月を耐えたと思っているのだ。まだ離婚から半年も経ってはいないのに、少しは仕事への影響を考えないのだろうか。
もどかしい気持ちが溢れそうだった。言いたいことはいくつもある。だがそのどれも、彼に言ってもムダだと分かっていた。言いたい人間には言わせておけばいい。CMやテレビ番組の仕事がなくなっても、自分は元々噺家だから困らない。そう、事務所が高めてきた『甘茶蔓新太』の価値になど興味がないと言うのだろう。そのイメージのお陰で得たものがある筈なのに。事務所の人間の働きのお陰で、いい思いをしたこともあった筈なのに。
だが伝わらない。慈の拙い言葉では到底伝わらないと分かっている。
「俺も新太さんに言っておきたいことがありました」
だから考えるより先に言葉が出ていた。
「何?」
「事務所を辞めようと思って」
「……それは随分急な話だね」
流石に彼が驚きの表情を見せるが、それでも気持ちが変わることはない。ふとした思いつきだったが、言葉にしてみて、それが一番いいと胸の中が落ち着いていく。
「長くてあと一ヵ月になると思います。新太さんのお陰で珍しい仕事ができてよかった。白石社長や原田さんに会えたことも」
新太が苦手な人間をそんな風に言うのは、皮肉と取られるかなと思った。だがもうそれでもいい。もう新太に嫌われてもいいのだと思えば、ずっと背負ってきたものから開放されたような感覚に包まれる。
「そう。じゃあ、今後の話はまたあとで」
そう言って、彼はあっさりと去っていく。
慈もその日は彼の背を見送ることもせずに、すぐにエンジンを掛けて車をUターンさせた。
これでいい。もう彼の傍にはいられない。そんな気持ちで、自宅ではなくもう一度事務所に向かう道を走っていた。
元々慈のプライベートになど興味はないのだ。ただ、慈が彼の依頼を断ったことを根に持つタイプではないから、そこは助かったと思う。助かった。それはもう、惚れた相手に思う言葉ではない。一体自分はどうしてしまったのだろう。そう思ううちに時は過ぎていく。大人が過ごす毎日は、何故こんなにも早いのだろう。
「慈、ちょっといい?」
珍しく改まって声を掛けられたのは、事務所で彼の仕事の経費精算を終えたときだった。
「何か?」
「ちょっと話したいことがあるんだ。今日、家まで送ってもらっていいかな?」
「……はい。もちろん」
新太は元々車の運転が好きではないタイプだったが、CMの仕事が決まってからは全くと言っていいほど運転しなくなった。事務所の人間の車かタクシーでしか移動しない。万が一人身事故でも起こせば、こちらに非がなくてもイメージダウンで企業に迷惑を掛けてしまうからだ。
慈の方は車通勤が許されているから送るのは問題ないが、話したいこととはなんだろう。事務所に寄ることを嫌がる彼が、今日は仕事終わりに一度事務所に行くと言い出したのは何故だろう。考えるほど嫌な予感が募っていく。
家に帰る間は何も言わず、彼が話し出したのはマンション前に車を止めたところだった。
「実は慈に報告があって」
彼らしくもなくそんな前置きがあったあとで、続いたのは驚くような言葉だ。
「再婚しようと思うんだ」
「え……」
流石に何を言っているのか分からなかった。
「女性と二人でいるところを写真に撮られてしまってね。今週中に熱愛報道の記事が出る。だからもう面倒だから結婚してしまおうと思って」
分からないが、理解できないほど混乱はしていない。
「それは加野さんではなく……?」
「うん。全く別の女性」
あっけらかんと彼は言った。
「週刊誌の記事の件があるから、社長と原田さんへの報告が先になってしまったけど、その次は絶対慈に言おうって決めていて」
彼が運転席に顔を向けて微笑む。まるで、テストでいい点が取れたから褒めてと言っている子どものような顔。その顔に、背中にゾワリとした感覚が這い上がる。
「ほら、前に結婚したときは事後報告になってしまって傷つけてしまったみたいだから、次は気をつけようって、ずっと思っていたんだ」
「……そう、ですか」
急激に湧いた怒りが、相手にぶつける前にまた急に冷えた感覚だった。
この男はズレている。DV報道のとき、社長や原田や慈が彼のイメージと名誉を護るためにどれだけ苦労したと思っているのだ。慈がどんな思いであの一ヵ月を耐えたと思っているのだ。まだ離婚から半年も経ってはいないのに、少しは仕事への影響を考えないのだろうか。
もどかしい気持ちが溢れそうだった。言いたいことはいくつもある。だがそのどれも、彼に言ってもムダだと分かっていた。言いたい人間には言わせておけばいい。CMやテレビ番組の仕事がなくなっても、自分は元々噺家だから困らない。そう、事務所が高めてきた『甘茶蔓新太』の価値になど興味がないと言うのだろう。そのイメージのお陰で得たものがある筈なのに。事務所の人間の働きのお陰で、いい思いをしたこともあった筈なのに。
だが伝わらない。慈の拙い言葉では到底伝わらないと分かっている。
「俺も新太さんに言っておきたいことがありました」
だから考えるより先に言葉が出ていた。
「何?」
「事務所を辞めようと思って」
「……それは随分急な話だね」
流石に彼が驚きの表情を見せるが、それでも気持ちが変わることはない。ふとした思いつきだったが、言葉にしてみて、それが一番いいと胸の中が落ち着いていく。
「長くてあと一ヵ月になると思います。新太さんのお陰で珍しい仕事ができてよかった。白石社長や原田さんに会えたことも」
新太が苦手な人間をそんな風に言うのは、皮肉と取られるかなと思った。だがもうそれでもいい。もう新太に嫌われてもいいのだと思えば、ずっと背負ってきたものから開放されたような感覚に包まれる。
「そう。じゃあ、今後の話はまたあとで」
そう言って、彼はあっさりと去っていく。
慈もその日は彼の背を見送ることもせずに、すぐにエンジンを掛けて車をUターンさせた。
これでいい。もう彼の傍にはいられない。そんな気持ちで、自宅ではなくもう一度事務所に向かう道を走っていた。