夕焼け色の道標

 体調が回復して仕事に戻ったあと、時々快人と会うようになった。
「警戒しなくていい。前みたいな昔馴染みに戻ろう?」
 そう言われて、未だ極限状態の日々の後遺症を抱えたような慈は頷いてしまう。
 快人の方も忙しいから、空いた時間に近場で食事をする程度だったが、それでも気持ちの部分で大きな救いになった。
 頻繁に会わないようにしよう。甘えないようにしようと思うのに、慈より一枚も二枚も上手の彼が上手く次の約束を取り付けて、慈を甘やかしてしまう。
「夜の水族館に行こう。言っておくけどデートじゃない。心が疲れた慈のための治療の一つだ。イルカセラピーってやつだな」
 そう言われて断れなかった。
 当直明けも昼過ぎまで仕事をしている筈なのに、数時間の睡眠で彼は夕方の待ち合わせ場所にやってくる。
「すみません。貴重な自由時間を」
「そんなよそよそしい言い方するなって。俺は慈との時間が貴重なんだよ」
 ぽんと頭に手を置いてそんな風に言われれば、何も言い返せない。
「まずご飯に行こうか。アラカルトで色々食べられる店があって」
 なかなか食欲が戻らない慈に、彼はそんな気遣いまで見せてくれた。慈に構っても彼にメリットはない気がして申し訳ない。だが今はただ甘えていればいいと言われれて、素直に従うことしかできない。
「俺に呼び出しが入るかもしれないから予約していないんだ。予約なしOKの店だけど、少し待つかもしれない。悪いな」
「いえ、そんな」
 店を選んでもらって不満などある訳がなかった。快人となら待ち時間も苦ではない。彼に促されてレストランのあるビルに向かおうとして、だがそこで慈の方のスマホが震え出す。
「あ……」
 画面を見た慈の反応で、快人も相手が分かったようだ。
「すみません」
「いや」
 怒っていないというように笑ってみせて、人通りの少ない位置まで慈の腕を引いてくれる。もう一度詫びて通話ボタンに触れた。
「慈? よかった、出てくれた」
「……どうかしましたか、新太さん?」
 ずっと恋い焦がれていた筈の声が、この頃は聞きたいのかそうでないのかよく分からなくなっている。
「打ち合わせ場所まで送ってくれないかなと思って」
 慈の複雑な感情など知る由もない彼が平然と言った。彼にしてみれば『断りたければ断っていい』、『強制はしていない』という程度の台詞なのだろう。だが選択肢があっても断れない関係がある。何も気づかないフリで、彼は本当はそんな慈の状態を分かって利用しようとしているのではないか。そう思えてしまう。
「今日は白石社長が送迎をする筈ではなかったでしょうか?」
 ついそう返してしまった。慈に限らず、マネージャーが休みの日は彼女が現場仕事を引き受けると決まっている。
「うん。でも社長だと疲れちゃって」
 隠しもせず彼は言う。新太のそんな気持ちは知っていた。白石はサバサバとした女性で慈は嫌いではないが、新太にとっては苦手な存在だ。仕事の面では頼りにしていても、『浮世離れ』の部分をビシバシと指摘されるのが嫌なのだろう。
「帰りはタクシーで帰るつもりだけど、行きだけでも慈に送ってもらえると助かるんだ」
 心做しか甘えるように言われて、逃れられない自分を感じた。
「分かりました。すぐ……」
 行きますと応えようとして、そこでスマホが手から消える。
「悪い。慈はまだ本調子じゃないから、休みの日は休ませてやってくれ」
 それだけ言って、快人が電話を切ってしまう。
「快人さん……」
「怒ったか?」
 スマホを返しながら問われて困ってしまった。掛け直して新太の望みに応じなければ、あの日快人を拒絶したことと辻褄が合わなくなる。そう分かっているのに、今、新太のために無償の奉仕に行きたいとはどうしても思えなくなる。
「いえ……」
 返せたのはそれだけだったが、快人はそれで充分満足だというように目を細めた。
「飯にしよう。そのあとイルカが待っている」
 迷いを捨てきれない慈の肩に腕を回して、快人が道の先へと進んでいく。委ねるのはよくないと分かっていながら、今はただ流されていたいと思ってしまった。
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