夕焼け色の道標

 彼女は美容クリニックを経営していた。美貌も頭脳もお金も持つパーフェクト女医として時々タレント活動のようなこともしているが、現実はそれほどいいものではない。
 都心の一等地のビル内にあるクリニックは、賃料だけでとてつもない経費が掛かっている。それを払って利益を出すには高度な経営センスが必要なのだと初めて知った。
 そんな彼女の性格はどこか新太に似ていた。言いたい人には言わせておけばいい。もう私には関係ないことだと言って、こちらの事務所に協力する気はないと言う。DV疑惑は嘘でも、結婚生活にいい思い出はなかったのかなと、そう思えてしまう。
 たが白石の事務所を守るための仕事ぶりは凄かった。新太より攻略しやすい加野を説得して、なんとかネット記事のインタビューの約束を取りつけた。もちろんギャラの他に高額な手間賃をこちらが払うことになる。そして、お金の他に彼女が要求してきたのが慈だった。
「看護師なら私のクリニックで働いてちょうだい。一ヵ月でいいわ」
 それが彼女の出した条件だった。
 無理だと思った。加野は医学的には形成外科の専門医資格を持っていて、美容整形のオペも熟す。慈に彼女の傍で働くスキルなどないのは明白だった。実務は名古屋にいた頃の診療所の経験くらいだ。彼女は慈の力を誤解している。だが彼女はあっさりと言い放つ。
「実力がどうあれ、資格が本物なら法律違反にはならないでしょう?」
 あとで知ったが、彼女のクリニックには当時、ほぼ受付の仕事しかしない看護師が一人いるだけだった。人件費削減のために慈をタダ働きさせたい。結局、給料は事務所で出すからと白石に頼み込まれて、加野のクリニックで働くことになったのだ。
 大袈裟でなく、地獄の一ヵ月だった。
 慈が来たことでもう一人の看護師は受付に専念してしまい、逃げ場がなかった。空き時間に足りない知識を補いながらの仕事は、慈の精神を痛めつけた。
「患者の前で不安な顔をしないで」
 そう言い放った加野は、怒鳴りつけるようなことはないが厳しかった。おまけに患者を逃さないために、カウンセリングだけの予定の患者に、「よければこのまま施術しますか?」と言って、平気でオペに入ってしまう。器具や手順を頭に入れて平然と振る舞う。それだけで神経は限界まで張り詰めた。
 慈の消毒が未熟で傷口が悪化したらどうしよう。何か不手際があったらどうすればいい。そんな緊張でずっと泣きそうだった。自腹で分厚い形成外科の本を買い、家に帰っても勉強の日々で、心が休まる暇がなかった。改めて、好きな男に近づきたいというだけで資格を得ていいような職業ではないのだと思い知った。
 そうして心を擦り減らしながら、なんとか一ヵ月を耐えきった。加野は約束通りWEB雑誌のインタビューを受けて、「興味深い結婚生活だった。いい経験になった」と答えてくれたという。新太のイメージはそれでだいぶ回復して、仕事も切られることなく済んだ。
「お疲れさま、一週間ゆっくり休んで」
 白石はそう言って休暇の他に特別手当を振り込んでくれた。それに喜ぶ余裕もないほど疲れきっていた。
「看護師の仕事をしたんだってね。お疲れさま」
 そんな、新太のどこか他人事の台詞も慈を痛めつけた。白石の言葉とは重みが違う。きっと慈がどれだけ苦労したか知らないのだろう。ずっと無償の愛情だと思ってきたけれど、飄々とした態度に流石にやりきれないものが募っていく。
 自分は何故ここまで尽くしているのだろう。初めてそんな疑問に襲われて、信じて進んできた道の足元が崩れていくような感覚を味わったのだ。
「──……そっか」
 新太に抱いた気持ちは省いてこの一ヵ月の話をすれば、快人は静かにそう言った。それが看護師の仕事だとか、いい経験になったじゃないかと言われなかったことに救われる。
「いきなりオペの助手はきつかったな。お疲れ、慈」
「……もう、看護師はやりたくない」
「ああ。しばらく好きなことだけしていればいい。……って言っても、治ったら仕事なんだろうけど」
 そんな言い方がありがたかった。
「とりあえず何か食べよう。空きっ腹に薬を飲むのはよくない」
「……うん」
「よし、何食べたい? 今夜はお菓子でもアイスでも好きなだけ食べればいい」
「子どもですか?」
 そんなやりとりに、ああ、自分は地獄から戻ってきたのだと、そう思った。
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