夕焼け色の道標

 一年前まで住んでいた部屋で、慈は医師の快人が心配するほど昏々と眠った。
 仕事終わりにやってきているらしい快人が、ベッドの前のテーブルに飲み物や着替えを用意してくれている。短く目を覚ましたときにそれに気づくのに、手を伸ばす前にまた意識が落ちてしまう。薬が合いすぎているのか、思ったよりずっと疲れているのか。とにかく快人に恐縮する暇もないほど眠り続けた。
 丸二日ほとんど起き上がることなく眠って、三日目の晩漸く普通の意識を取り戻す。
「……起きなすぎて死ぬんじゃないかと思った」
 そう苦笑する快人に、もう不機嫌オーラはなかった。
「何か食べたいものは?」
「いえ……」
 水のボトルを差し出しながら言われて首を振る。
「そうか。じゃあ、食べたくなくても食べておけ……って、前もこんなやりとりしたな」
 しみじみと言われれば胸にチクリと痛みが走る。まだ快人の気持ちを知らずに、ただ年下の昔馴染として甘えていた。あの頃の二人にはもう戻れないと思えば、やはり哀しい。
「元気ないな」
 俯いてしまえば、キッチンに向かいかけた快人が戻って、ベッドの前に膝をついて慈の顔を見る。
「言い方は悪いかもしれないけど、お前はもっと喜んでいるかと思った」
 その台詞に、ああ、彼も知っているのだと気がつく。
「だって、あいつ離婚したんだろ?」
 問われて、小さく頷くことしかできなかった。


 新太の結婚生活は一年持たなかった。
 ぽつぽつと芸能ニュースに記事が出たが、慈はその前に事務所の人間から聞いていた。
「新太のやつ、何も言わずに離婚してしまったんだ。番組に影響が出ることもあるから、プライベートでも大きなことは報告するようにって言っていたのに、聞きやしない」
 そう呆れた口調で話してくれたのはチーフの原田だ。
 慈が働くことになった芸能事務所は、売れっ子の俳優が一人と、他に時々テレビに出るタレントが十人程の小さな事務所だった。
 女性社長の白石とチーフマネージャーの原田が管理者で、あとは各タレントにつく運転手兼マネージャーが数人。原田は所属タレント全員に目を配る立場の男性だった。
「浮世離れって言ったら聞こえはいいけど、結局は勝手なんだよな。浅井さんの苦労がよく分かる」
 そんな風に、下っ端の慈も気遣ってくれる。
「この事務所に来る前からの付き合いなんだろ? よく嫌にならないな」
 そう言われて曖昧に笑って返した。自分は新太が好きで、一番の味方でいられればいいと思っていたから。だが事態はあらぬ方向に動いてしまう。
 週刊誌に新太のDV疑惑の記事が出てしまった。離婚はDVが原因で、妻が避難するために別居していたと、それらしく書かれてしまった。別居は結婚当初からだし、事実を切り貼りしてできた嘘の記事。それでも事務所にとっては大問題だ。新太は今現在、落語の仕事の他に対談番組とCMを一本持っている。イメージダウンで打ち切りや契約解除になれば報酬が入らないだけでなく、下手をすれば違約金が発生してしまう。それを回避するために社長自らフェイク記事の謝罪に向かう。
 そんな中困ったのが、他でもない新太の態度だった。
「言わせたい人間には言わせておけばいい」
 そう言って普段と変わらない生活を貫いた。以前の慈なら、周りに流されない彼が魅力的に見えただろう。自分だけが彼のよさを知っていればいいと。だが今は、すぐ傍で彼のイメージを守ろうと必死に働く白石や原田を見ている。例え何もできなくても、当人の態度で人の気持ちは変わる。対談番組の出演者には細やかな気遣いを見せる彼が、共に働く人間に対してあまりにも無関心だった。そんな彼は当然、やんわり否定コメントを出すことのできる雑誌インタビューの仕事も拒否してしまう。
 切れ者の白石は早々に新太本人に動いてもらうことを諦めた。だが事務所の収入問題になるから放っておく訳にはいかない。そこで元妻の方にインタビューをセッティングして、前向きな離婚だったと話してもらおうと交渉を始めたのだ。
 新太の元妻、加野妙子かのたえこは新太と同じくらい厄介な人物だった。
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