夕焼け色の道標

 迷惑になるから寝ないつもりだったのに、点滴の心地よさに眠ってしまった。目覚めれば白い天井と点滴台が目に映る。そうだ、病室ではなく処置室にいたのだ。
 点滴パックにはまだ液が残っている。よかった、点滴が終わったのに眠りこけている患者にならずに済んだ。ぼんやりと思って、ふとベッドサイドに視線を移す。
「……!」
 そこで一度に覚醒した。
「快人さん、どうして……」
 ベッド脇に寄せた丸椅子に座って、私服姿の彼が慈を見つめている。一年ぶりだが、変わらず綺麗な顔をしている。何故当直でもない彼がここにいるのだろう。
「まだ起きるなって」
 思わず起き上がってしまって、彼にベッドに戻された。
「当直の同僚が連絡をくれたんだよ。前に清掃スタッフで働いていた男性が夜間診療に来たけど、お前、知り合いじゃなかったか? ってな」
 清掃スタッフをしていたのは二年も前のことなのに、顔を覚えられていたのが意外だった。逆に慈は診察してくれた医師のことなど覚えていない。快人も含めて、医師というのは一般人とは違う種類の記憶力を持つものなのかもしれない。
「清掃をしていた知り合いなんてお前しかいないだろ? だから慌ててやってきたんだ」
「……すみません。仕事でもないのに」
 小さく詫びて視線を逸らした。医師の休日は貴重だ。その貴重な時間を奪ってしまったことが申し訳ない。それも、散々厚意を受けておきながら酷い別れ方をした自分なのだ。
「嫌なら来ていない」
 一言だけ言って、彼は立ち上がってしまった。慈と話をする気はないというように、点滴パックに触れる。
「もう終わりそうだな。で、悪いけどうちの病院は今、体力のある若者を軽い肺炎程度で入院させられないんだ」
「あ、うん。大丈夫、それは分かっています」
 病院の事情は知っていた。ベッド数が足りないのはこの病院だけの問題ではない。
「丁度明日から一週間お休みだったんです。薬を飲んで部屋で安静にしていれば治りますから」
 不機嫌に見える快人の態度に怯えて、聞かれてもいないことまで話してしまった。とにかく会計をして帰らなければ。看護師を呼んで点滴を外してもらうために、まだだいぶ辛い身体を起こす。
「心配させてすみませんでした。タクシーで帰りますので快人さんは……」
「おい、ふざけるなよ」
 低い声にびくりと肩が震えた。
「……悪い」
 気づいた彼が詫びてくれるが、それでも不機嫌オーラは変わらない。やはりこの病院に来たことに怒っているのだろうか。慈の顔など二度と見たくなかったということなのだろうか。
「……ったく」
 なす術なく俯いてしまえば、彼の気持ちを抑えるような、やりきれないような声が降りてくる。
「元気にやっていると思ったのに、なんでそんな弱ってんだよ」
 思っていたのとは違う言葉だった。だがそれにも反論のしようがない。
「……すみません」
 漸く絞り出した声に、彼のため息が重なる。
「一週間休みなら、俺の家にいろよ」
「え?」
「病院も近いし、いちいち移動しなくていいだろ?」
「でも」
 流石にそこまで迷惑を掛ける訳にはいかない。
「俺も仕事があるからずっと一緒にはいないし、三階で療養するなら自宅と変わらない」
「快人さん……」
 どうやって断ればいいのだろうと悩むうちに、咳き込んで目の回るような感覚に襲われた。点滴で少しは楽になったが、まだ身体は絶不調で、一人で部屋に帰れるのかという不安が募る。
「三階、慈がいたときのままにしてあるんだ。慈が嫌なら俺はなるべく三階にはいかないようにするから、それならいいだろ?」
 弱った身体を包み込むようにして言われれば、その腕に縋りたいと思ってしまう。
「……じゃあ、熱が下がるまで」
「ああ、それでいい。会計してくるから待っていろ」
「え、いや、待って」
「医者と話をつけておくから、お前はもう少し休んでいろ」
 慈の言葉は聞く気がないというように処置室を出ていく彼に、今は上手く言い返せる気がしなかった。
 完治したら治療費とお礼を渡そう。快人はもう他人だから、礼儀は弁えなければならない。
 弱い意識の中で辛うじてそう思った。
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