夕焼け色の道標

 快人のところで暮らし始めて一年が過ぎた。
 加野のクリニックのトラウマでもう看護師はやりたくないと言っていた自分が、大里総合病院の小児科で働いているから不思議なものだ。
 初め自分は何がやりたいかを考えたとき、彦音と暮らした日々を思い出して、老人ホームで働きたいと思った。だが老人ホームの看護師はワンオペの夜勤が求められたり、介護職への指示出しもしなければならないと知った。そのために、やはり看護師の能力も上げておかなければならないと思ったのだ。老人ホームに行ったとき足手まといにはなりたくない。
 という訳で、慢性的に人手不足だという大里総合病院に就職した。快人は内科に配属されてほしかったようだが、就職当時一番人手不足だった小児科に行くことになったという訳だ。
 最近漸く業務にも慣れてきた。この病院の小児科に男性看護師は珍しいらしく、入院中の子どもたちが顔を覚えて懐いてくれる。それが毎日の仕事の糧になる。
 そして自分でも驚くことに、夜勤もオペ室の助手も熟していたりする。大里総合病院は研修制度が充実していて、休日に希望者を集めてスキルアップや学び直しの研修をしてくれる。子育てが終わってまた病院勤務に戻るというスタッフに交じって学ぶ時間は、意外なほど充実していて、快人に「俺と過ごす時間はないのか」と抗議されるほど通ってしまった。そうこうするうちに、力がついてきたことが自分でも分かって、更に仕事が面白くなる。こんな風に看護の仕事と向き合う日が来るとは思わなかった。
 もう関わることはないが、あれから新太は対談番組とCMの仕事が終了した。CMは単に契約終了の時期だったというだけだが、熱愛報道がなければ契約更新の可能性が高かったから、自身の行動で一つ仕事を失ったようなものだ。
 対談番組の方はMCを替えてリニューアルという形になって、新太にとって打ち切りよりダメージが大きいと思った。あなたが特別なのではないと宣言されたようなものだ。威張り散らすことはなくても、自分の実力を信じていた人だから、流石に悔しい思いをしただろう。だがそんな彼を支えるのは慈の仕事ではない。
 幸い本業は順調なようで、独演会で日本中を回っている。各地からあるオファーを整理したり、独演会の会場の手配などを、引き続き白石の事務所に任せることにしたという。テレビの仕事がなくなっても事務所を辞めなかったのは意外だったが、彼にも思うところがあったのだろう。何故か結局再婚もしなかったから、白石や原田が彼を諭す役割を引き受けていく筈だ。
 何十年も先に、また彼の落語を聞きに行くことがあればいい。そのときは一人の観客として思い切り笑えたらいい。そう思っている。
「慈」
 階段下の長椅子で待っていれば、約束の十分遅れで彼がやってきた。
「ごめん、遅くなって」
「いえ、そんなに待っていないので」
 一緒に帰れそうな日は、建物の配置上ほとんど人が来ないこの場所で、慈が快人を待つのがお約束だった。快人に急な残業が入ることが多いから、三十分待って現れないときは先に帰る。それが二人で決めた約束だけれど、どうやら今日はその約束に従わなくてもよさそうだ。
「いつも待たせて悪いな」
「いえ。大変な仕事なのは分かっていますから」
「お前だって大変だろ?」
 そんな風に言い合いながら職員用通用口に向かう。家が近いから通勤は徒歩で、二人並んで帰ることのできるレアな日が、慈にとって細やかな幸せになっている。一緒に帰れなくてもどのみち家で会うのに、何を言っているのだと笑われてしまいそうだけれど。
「慈」
 誰も来ないから照明を最小限にしている廊下で呼ばれて顔を向ければ、不意討ちで唇を奪われた。
「ちょっと、ここは職場ですよ。しかも創業者一族でしょう?」
 何度か引っ掛かっているのに今日もまた掛かってしまう自分が悔しくて、つい理屈っぽいことを言ってしまう。だが内心全く怒っていないのだから、きっと次も引っ掛かるだろうと諦めモードだ。そんな膨れたフリも幸せなのだから重症だ。
「明日、久しぶりの休日だからな。今日は俺の部屋で寝ろ」
「そうします。この間快人さんの部屋だったから、今日はこっちに来てもいいですけど」
「それもいいな」
 男同士で誰かに聞かれたら困る会話をしているスリルにも慣れてきた。いずれ快人との関係に異議を唱える者が現れたとしても、そのときはまた乗り越える方法を考えればいい。戦わずに逃げることはしないと言い切れるほどには、恋人の彼に参っている。自分も少し強くなったのかもしれない。
「ずっと一緒にいような」
 外に出る直前にそう言って髪を撫でる彼に、慈も一瞬だけ身体を寄せて、はい、と短く応えるのだった。

*end*

→あとがき
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