夕焼け色の道標
誰かが『恋愛は公私共に悩みのない人間のための娯楽だ』と言うのを聞いたことがある。そこに意識を割けるほど暇な人間がするものだとも。
自分は恋愛絡みで公私共に悩みに悩んできたから、そんな言葉は当て嵌まらないと思ってきた。だが人生は何があるか分からない。まさかこの自分が、仕事に忙殺されて、好きで好きで仕方のない男を想う余裕もない日々を送ることになるとは。いや、自分の場合は忙殺の理由がその男なのだから、少し違うかもしれない。
とにかくその思考も答えを出す前に散ってしまう忙しさだった一ヵ月間を、慈はなんとか耐えきった。耐えきって、明日から一週間の休みに入るというところでダウンした。
「三九度六分……」
きっと朦朧とした意識で見間違いをしたのだ。そう現実逃避したくなるデジタル体温計の表示にため息を吐く。帰宅してあまりの体調の悪さにベッドに倒れ込んで、目覚めてみれば回復するどころか酷い状態になっていた。
自分も一応看護師の端くれだ。軽症で救急車を呼んではいけないことくらい知っている。だが果たしてこれは軽症か。一人でなんとかするにしても、すぐ病院に行った方がいいのか、家でじっとしているのがいいのか。それが判断できれば軽症なのだろう。いや、できないから悩んでいる。ああ、もう訳が分からない。
切れ切れの思考で辛うじて7119を思い出して掛けてみた。多忙で出ないか冷たくあしらわれるかどちらかだろうと思っていたのに、オペレーターは意外に丁寧に対応してくれる。
「発熱ですね。自分で病院に行くことは可能ですか?」
タクシーなら可能だと思うと答えれば、数分の保留のあとで安堵の声が告げる。
「大里総合病院で受入可能だそうです。連絡を入れておきますのですぐに向かってください」
「大里総合病院……」
できれば避けたかった選択肢だが、今はそんなことを言っていられない。現金とカードとタオルとTシャツを無造作に詰め込んだ鞄を抱えて、大通りで捕まえたタクシーに乗った。マスクを二重にしてフードを被り、後部座席で大人しくしていれば運転手も察してくれる。
以前清掃スタッフとして働いていた病院だから、夜間受付の場所は知っていた。タクシーを降りて向かえば、連絡を受けていたらしい看護師が発熱患者の処置室に案内してくれる。そこで流行りの感染症でないことが確認されてから、一般の処置室に移された。診察結果は軽い肺炎。
「脱水が酷いので点滴をしましょう」
そう言われてベッドに寝かされたところで、ガクリと全身の力が抜けた。ポツポツと生食が体内に入ってくる。その液体に身体を救われるような感覚に包まれながら、意識が霞んでいく。
今夜の当直が快人でなくてよかった。
落ちる直前、辛うじて正常な意識でそう思った。
自分は恋愛絡みで公私共に悩みに悩んできたから、そんな言葉は当て嵌まらないと思ってきた。だが人生は何があるか分からない。まさかこの自分が、仕事に忙殺されて、好きで好きで仕方のない男を想う余裕もない日々を送ることになるとは。いや、自分の場合は忙殺の理由がその男なのだから、少し違うかもしれない。
とにかくその思考も答えを出す前に散ってしまう忙しさだった一ヵ月間を、慈はなんとか耐えきった。耐えきって、明日から一週間の休みに入るというところでダウンした。
「三九度六分……」
きっと朦朧とした意識で見間違いをしたのだ。そう現実逃避したくなるデジタル体温計の表示にため息を吐く。帰宅してあまりの体調の悪さにベッドに倒れ込んで、目覚めてみれば回復するどころか酷い状態になっていた。
自分も一応看護師の端くれだ。軽症で救急車を呼んではいけないことくらい知っている。だが果たしてこれは軽症か。一人でなんとかするにしても、すぐ病院に行った方がいいのか、家でじっとしているのがいいのか。それが判断できれば軽症なのだろう。いや、できないから悩んでいる。ああ、もう訳が分からない。
切れ切れの思考で辛うじて7119を思い出して掛けてみた。多忙で出ないか冷たくあしらわれるかどちらかだろうと思っていたのに、オペレーターは意外に丁寧に対応してくれる。
「発熱ですね。自分で病院に行くことは可能ですか?」
タクシーなら可能だと思うと答えれば、数分の保留のあとで安堵の声が告げる。
「大里総合病院で受入可能だそうです。連絡を入れておきますのですぐに向かってください」
「大里総合病院……」
できれば避けたかった選択肢だが、今はそんなことを言っていられない。現金とカードとタオルとTシャツを無造作に詰め込んだ鞄を抱えて、大通りで捕まえたタクシーに乗った。マスクを二重にしてフードを被り、後部座席で大人しくしていれば運転手も察してくれる。
以前清掃スタッフとして働いていた病院だから、夜間受付の場所は知っていた。タクシーを降りて向かえば、連絡を受けていたらしい看護師が発熱患者の処置室に案内してくれる。そこで流行りの感染症でないことが確認されてから、一般の処置室に移された。診察結果は軽い肺炎。
「脱水が酷いので点滴をしましょう」
そう言われてベッドに寝かされたところで、ガクリと全身の力が抜けた。ポツポツと生食が体内に入ってくる。その液体に身体を救われるような感覚に包まれながら、意識が霞んでいく。
今夜の当直が快人でなくてよかった。
落ちる直前、辛うじて正常な意識でそう思った。
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