カタクリ色の恋噺
土曜の収録はスムーズに終わり、慈は車を置きに戻ったあとで、夜行バス乗り場のある駅に向かった。十時に出発する京都行きの高速バスに乗り込み、予約していた窓際の席に座る。
まだ夏休みシーズンには少し早いからか、車内は空いていた。隣も前後も人がいなくて、気を遣わずのんびり過ごすことができる。窓のカーテンを閉めることもできたが、開けたまま煌びやかな街の明かりが離れていく様子を眺めていた。すぐに帰ってくるというのに、都会の明かりが見えなくなっていく様子は少し寂しい。
到着は朝五時だから寝ておくのが正解だと分かっているのに、眠気は全く襲ってこなかった。高速道路に入って景色が単調になれば、また新太のことを考えてしまう。
たかが扇子一本買うのに京都まで行くなんて、どうかしている。だがどうしても行きたくなってしまったのだから仕方がない。先週のようにトラブルで帰宅が遅くなれば諦めようと思ったが、収録は問題なく終わった。そのことに後押しされてしまったのだ。
願い扇子。本当にそれで願いが叶うとは思わないが、縁起のいいものは傍に置いておいて損はない。彼は『早朝落語』に出たいと言っていた。その願いを叶えるために、少しでもプラスになるものを贈りたい。
いつだったか、快人に「家賃はいらないから、その分お前が欲しいものを買ってほしい」と言われたことがある。それなら、今の自分は彼の言う通りにしている。慈が欲しいのは新太の為になるもの。本音は新太自身が欲しい。新太に恋人として好きになってもらって、抱きしめてほしい。だがそれはまだまだ難しそうだ。
目的の店のチェックを終えてスマートフォンをしまったところで、ふと数日前の快人の言葉が浮かんだ。どうしてそんなに好きなの? 彼はそう聞いてきた。
どうしてと言われても、彼を納得させる説明は難しい。見ていると幸せだという答えも不満らしいから、これから先も理解してもらえないだろう。それでも、なんと言われようと慈は新太が好きなのだ。
ずっと静かに生きてきた慈に新太は生きる希望をくれた。彼のためならどんなことでもできる。いつも鞄につけているキーホルダーに触れて、過去の思い出に浸る。
今のように新太の手伝いをするようになる前、一度彼と話したことがあった。寄席に通い始めて半年程の頃、土日で栃木と千葉で公演があって、二日連続で観に行ったのだ。日曜の公演で新太の落語に満足して帰ろうとしたが、その会場は公共交通機関の利用が不便な場所にあった。仕方なく誰もいないバス停のベンチに座って、次が三十分後のバスを待つ。そこに何故か彼本人がやってきたのだ。
「僕の落語を聞きに来てくれた人だよね?」
そう声を掛けられたとき、夢でも見ているのではないかと思った。高座にいたときのまま、彼は薄緑色の着物に袴という姿でいる。出番が終わって、自分の後を追ってきてくれたのだろうか。だとしたら、なんてもったいない状況なのだろう。
「昨日も来てくれたでしょう?」
目の前の彼が信じられないようなことを言い、にっこりと笑った。彼の落語は楽しい話が多いから、落語の中で笑うことも多い。けれどそれよりずっと素敵だと思った。ドキドキしすぎて、何一つ言葉を返すことができない。
「あ、びっくりしたかな? 高座って意外とお客さんのことがよく見えるんだよ」
何も言わない慈に気を悪くした様子もなく、彼が懐から何か取り出して渡してくる。
「貰いもので悪いけど、よかったらどうぞ」
薄紫色の紙に包まれた和菓子だった。反射的に受け取れば、彼がほっとしたようにまた笑う。
「あずま饅頭。おいしいから食べてね」
「……ありがとうございます」
「うん。じゃあ、また聞きに来てね。待っているから」
そう言って去っていく彼の後ろ姿にはっとして、気がつけば音量調節が上手くいかないテレビみたいに声が出ていた。
「行きます! また絶対行きますから!」
慈の声に一度振り向いて、彼が手を振ってくれる。慈も小さく振り返して、姿が見えなくなるまで見つめていた。ふと見回せば、バス停の裏側にはカタクリ畑が広がっていた。一面にあずま饅頭の包み紙と同じ色の花を咲かせている。彼が来るまで、滅多に車が通らない車道と、バスの時刻表しか見えていなかった。それなのに突然見える世界が変わる。
好きだと思う。もっと近づくにはどうしたらいいだろう。考えるうちに、時間差で彼と話せた奇跡に震えてしまう。
やはり自分の人生には彼が必要だ。そう実感した瞬間だった。
まだ夏休みシーズンには少し早いからか、車内は空いていた。隣も前後も人がいなくて、気を遣わずのんびり過ごすことができる。窓のカーテンを閉めることもできたが、開けたまま煌びやかな街の明かりが離れていく様子を眺めていた。すぐに帰ってくるというのに、都会の明かりが見えなくなっていく様子は少し寂しい。
到着は朝五時だから寝ておくのが正解だと分かっているのに、眠気は全く襲ってこなかった。高速道路に入って景色が単調になれば、また新太のことを考えてしまう。
たかが扇子一本買うのに京都まで行くなんて、どうかしている。だがどうしても行きたくなってしまったのだから仕方がない。先週のようにトラブルで帰宅が遅くなれば諦めようと思ったが、収録は問題なく終わった。そのことに後押しされてしまったのだ。
願い扇子。本当にそれで願いが叶うとは思わないが、縁起のいいものは傍に置いておいて損はない。彼は『早朝落語』に出たいと言っていた。その願いを叶えるために、少しでもプラスになるものを贈りたい。
いつだったか、快人に「家賃はいらないから、その分お前が欲しいものを買ってほしい」と言われたことがある。それなら、今の自分は彼の言う通りにしている。慈が欲しいのは新太の為になるもの。本音は新太自身が欲しい。新太に恋人として好きになってもらって、抱きしめてほしい。だがそれはまだまだ難しそうだ。
目的の店のチェックを終えてスマートフォンをしまったところで、ふと数日前の快人の言葉が浮かんだ。どうしてそんなに好きなの? 彼はそう聞いてきた。
どうしてと言われても、彼を納得させる説明は難しい。見ていると幸せだという答えも不満らしいから、これから先も理解してもらえないだろう。それでも、なんと言われようと慈は新太が好きなのだ。
ずっと静かに生きてきた慈に新太は生きる希望をくれた。彼のためならどんなことでもできる。いつも鞄につけているキーホルダーに触れて、過去の思い出に浸る。
今のように新太の手伝いをするようになる前、一度彼と話したことがあった。寄席に通い始めて半年程の頃、土日で栃木と千葉で公演があって、二日連続で観に行ったのだ。日曜の公演で新太の落語に満足して帰ろうとしたが、その会場は公共交通機関の利用が不便な場所にあった。仕方なく誰もいないバス停のベンチに座って、次が三十分後のバスを待つ。そこに何故か彼本人がやってきたのだ。
「僕の落語を聞きに来てくれた人だよね?」
そう声を掛けられたとき、夢でも見ているのではないかと思った。高座にいたときのまま、彼は薄緑色の着物に袴という姿でいる。出番が終わって、自分の後を追ってきてくれたのだろうか。だとしたら、なんてもったいない状況なのだろう。
「昨日も来てくれたでしょう?」
目の前の彼が信じられないようなことを言い、にっこりと笑った。彼の落語は楽しい話が多いから、落語の中で笑うことも多い。けれどそれよりずっと素敵だと思った。ドキドキしすぎて、何一つ言葉を返すことができない。
「あ、びっくりしたかな? 高座って意外とお客さんのことがよく見えるんだよ」
何も言わない慈に気を悪くした様子もなく、彼が懐から何か取り出して渡してくる。
「貰いもので悪いけど、よかったらどうぞ」
薄紫色の紙に包まれた和菓子だった。反射的に受け取れば、彼がほっとしたようにまた笑う。
「あずま饅頭。おいしいから食べてね」
「……ありがとうございます」
「うん。じゃあ、また聞きに来てね。待っているから」
そう言って去っていく彼の後ろ姿にはっとして、気がつけば音量調節が上手くいかないテレビみたいに声が出ていた。
「行きます! また絶対行きますから!」
慈の声に一度振り向いて、彼が手を振ってくれる。慈も小さく振り返して、姿が見えなくなるまで見つめていた。ふと見回せば、バス停の裏側にはカタクリ畑が広がっていた。一面にあずま饅頭の包み紙と同じ色の花を咲かせている。彼が来るまで、滅多に車が通らない車道と、バスの時刻表しか見えていなかった。それなのに突然見える世界が変わる。
好きだと思う。もっと近づくにはどうしたらいいだろう。考えるうちに、時間差で彼と話せた奇跡に震えてしまう。
やはり自分の人生には彼が必要だ。そう実感した瞬間だった。