カタクリ色の恋噺

 病院の仕事は朝七時からだが、慈は六時半には職場にいるようにしている。着替えてモップや専用のカートを準備しておくと、同じ時間帯のメンバーが喜んでくれるのだ。
 新太には午後はいつも空いていると伝えてあるから、部屋に行く日以外にも呼び出されることがある。そうでなくとも、次の収録で会わなければならない師匠の下調べをしたり、新太が先輩噺家に渡すための贈答品を調べておいたりと、やることはいくらでもある。だから残業はしない。その罪滅ぼしで、早くから動くことにしているのだ。
 掃除道具を準備し終えて、七時五分前にタイムカードを押したところで、出勤してきた女性メンバーたちと合流して仕事を始めた。
「浅井くん、あとで裏から消毒剤のボトルを持ってきてくれる?」
「分かりました。一本でいいですか?」
「じゃあ、二本。やっぱり男性がいると助かるわ。あれ重くて」
 仲間の女性たちは慈を程よく頼ってくれる。男性にしては小柄な慈もちゃんと男扱いをして持ち上げてくれるから、気分よく仕事ができる。みなそれぞれ事情があって早朝からの仕事をしているが、自ら話し出すとき以外は余計なことは聞かないという暗黙の了解がある。そんな訳で、慈の残業拒否にも、今のところ何か言われたことはない。
 そしてもう一つ。この仕事はマスク着用が義務付けられているのがありがたかった。慈は客観的に見て綺麗な顔立ちをしているらしい。それを隠せるのが楽だった。
 好きな男に好かれなければ、綺麗な顔なんて意味がない。意味がないものを他人にどうこう言われても嬉しくないから、誰より先に出勤してマスクで顔を隠してしまう。
 その日も定時できちんと仕事を終え、五分で着替えて自宅に戻った。自宅で新太の部屋に行くための持ちものをチェックしていると、そこに彼から電話が入る。
「少し早く来られるかな? 車で送ってほしいところがあって」
「もちろん。これからすぐ向かいますから、三十分くらいで着くと思います」
「ありがとう。じゃあ、待っている」
 頼られればやはり嬉しい。エプロンが入ったバッグを肩から掛けて、逸る気持ちで駐車場に向かう。マンション脇には車が三台駐められるスペースがあって、快人と自分の車が並んでいる。病院までは徒歩五分だから車は使わないのだ。
 自分の小さな車で新太の部屋に向かえば、その日は先輩噺家の家まで乗せてほしいと言われた。体調を崩して療養しているから、顔を見せに行くのだという。病気で弱っているところに新太が来てくれたら、それは嬉しいだろう。彼を助手席に乗せて走りながら、そう思う。
「そうだ。『早朝落語』に今度秀助が出ることになったんだ。放送は来月だけど。秀助、覚えているよね?」
「もちろん」
 新太との橋渡しをしてくれた弟弟子だ。お世話になったし、今も時々連絡を取り合う仲だから活躍は嬉しい。けれど。
「秀助の落語をじっくり聞くのは久しぶりだから楽しみだな。先を越されてちょっと悔しいけど」
 彼の方が言ってくれてほっとした。『早朝落語』は日曜の朝に放送される落語番組だ。一人で丸々十五分間落語を披露できる。大抵は大御所が呼ばれるが、時々世間で顔の知れた若手や、プロデューサーの目に留まった新人が登場する。世間で充分顔の知れた落語家なのに、新太はまだ出たことがなくて、いつも出てみたいと言っている番組なのだ。
「いいなぁ、秀助。僕も呼んでもらえるように、もっと頑張らないと」
 そう素直に口にする彼の表情には少しも嫌みがなくて、改めていいなと思った。きっと秀助にも本心でおめでとうと言えるのだろう。新太はどこまでもまっすぐで、他人の幸せも一緒に喜べる人間だ。
「単純に実力で選ばれる訳ではないと思いますし、新太さんが凄い落語家だってことは、もうみんな知っていますよ。でも、出たら俺はリアルタイムで観て、録画もしますから」
「ありがとう。やっぱり慈は優しいな」
 ミラー越しに上機嫌の笑顔を見れば慈の顔も緩む。送迎とはいえ、こんな風に好きな人と二人で過ごせるなんて数年前までは考えられなかった。それでも、近くでお世話ができればそれで満足かと思えば、それは違った。近くにいるようになってもっと好きになった。彼の前では隠しているが、慈の本音は彼の恋人になりたいと思っている。その気持ちを誤魔化すつもりはない。
「あ、この辺りに駐めてくれる?」
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