カタクリ色の恋噺

 引越しの準備をしながら、そわそわとした時間を過ごした。
 苦しいほどに待って、漸く訪れた時間にテレビ局に向かう。慣れたコインパーキングに車を止めて、収録のときいつも新太が出入りしていた通用口に向かった。もうスタッフカードは返して中には入れないから、通用口の前に立って彼が出てくるのを待つ。
 運がいいのか悪いのか、夏なのに冷たい雨が降る夜だった。全身が冷えていくが、雨のお陰で他の出待ちのファンがいなくて、静かに待つことができる。
 出入りするスタッフに怪訝な顔を向けられ、以前見たことのあるスタッフには顔を隠して待った。そうして身体が芯から冷えた頃、漸く目的の彼の姿を見つける。
「慈?」
 意外にも、先に声を掛けてきたのは新太だった。
「慈だよね? こんなところでどうしたの? いや、それより元気だった?」
 傘を広げる前にこちらに駆けてくる彼が濡れてしまわないように、彼に傘を傾けてやる。
「ご無沙汰しています」
「うん。そっか、帰ってきていたんだ。なんだ、連絡くれればよかったのに」
 慈がこの数ヵ月間どんな思いで過ごしてきたか、彼は知らない。だから以前と同じ軽さで言葉を向けてくる。だが今はもう、それが新太だと受け入れることができる。
「タクシーで帰るつもりだったんだけど、よかったら一緒に乗っていく?」
「いえ。俺は車で来ていますので。よかったら家までお送りします」
「ほんと? 助かる」
 彼は変わっていなかった。慈が彼を好きで、結婚に傷ついたかもしれないなんて考えもしないのだろう。でもそれでいい。その方がこれからも彼を好きでいられる。そう開き直ることができる。
 驚いたことに、彼の部屋は結婚前と変わっていなかった。妻も自分の部屋を持っているから、それぞれの部屋で暮らして、週に一、二度二人で過ごすのだという。
 再会してすぐに色々なことを話すのは迷惑かと思ったから、今夜はただ部屋の前まで送って退散するつもりだった。だが彼のマンション前に車を止めたところで彼の方が慈を引き止める。
「僕、ドラマの話が決まりそうなんだ。脇役だけどね。それで落語以外の仕事の管理をしてもらうために、小さな芸能事務所に所属することになって」
「そうなんですね。新太さんのドラマなら楽しみです」
 何故自分にそんなことを言うのか分からなくて、無難な言葉を返すことしかできない。
「それで、慈に謝りたくて」
 いきなり何を言うのだろう。だが彼の顔に冗談はなくて、シートベルトを外して身体ごとこちらに向けてくる。
「事務所の社長が厳しい人なんだ。女性なんだけどね。今までどうしていたのって聞かれて、慈に全部やってもらっていたって話したんだ。給料のこともね。そうしたら物凄く怒られた。そんなお小遣いみたいなお金で人を扱き使って、それがバレたら週刊誌に面白おかしく書かれて、相手にもいずれ訴えられるってね」
「俺はそんなことしません」
「うん。それは分かっているけどね」
 新太が珍しく、伝えたいことが上手く伝えられないというようなもどかしさを見せる。
「ごめん。僕はずっと恵まれた世界で生きてきて、世間一般の人間とは感覚が違う部分があるみたいで」
「それはずっと前から知っていました」
 何を今更という調子で返してやれば、新太も苦笑した。本当に悪気はなかったのだなと思えば、以前少しだけ感じた彼への怒りも綺麗に消えていく。
 いつか夢で見たように、慈をわざと苦しませようとしていた訳ではなかった。それが分かっただけで充分。自分は充分幸せなのだ。
「それで、慈に以前働いてもらっていた分のお金を渡したいんだ。いくらになるか難しいなら弁護士さんに相談をしても」
「いえ。お金はいりません」
 きっぱりと言った。新太に尽くしていたのは自分の意思だ。今更お金が欲しいなどと言うつもりはない。
「ただ、一つだけお願いを聞いてもらっていいでしょうか」
「何?」
 なんでも聞くよという心の声が聞こえてきそうだ。その顔に勇気づけられて、贅沢な願いごとを口にする。
「いつか、俺のためだけに落語を一席披露してください。それを楽しみに生きていきますから」
「そんなことでいいの?」
「甘茶蔓新太の落語ですよ? 独り占めできるなんて物凄い贅沢じゃないですか」
 そう言えば、新太も慣れた人懐っこい笑顔を見せてくれる。
「じゃあ、演目は彦音師匠と同じものにしようか」
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