カタクリ色の恋噺
まだ予感が外れている可能性もある。僅かな期待を胸に、音を立てないようにリビングに向かってテレビを点ける。再放送の地味なバラエティが終わって、予告がいくつか流れて、その後に目的の番組が始まる。
覚悟を決めてオープニングに目を遣って、現れた名前に諦めの息が零れた。
『出演 甘茶蔓新太』
その字幕に、きちんと生きようと努力してきた数ヵ月が一度に崩れる。ダメだ。今ならまだ引き返せると分かっていて、画面を消すことができない。
「……っ!」
オープニングの質素な画面が消えて高座の彼を観たとき、息をするのも忘れた。
なんのつもりだ。何故こんなことをするのだと混乱して、漸く戻ってきた呼吸がまた乱れて、ソファーに崩れてしまう。
新太がカタクリ色の着物を着ていた。初めて会ったときのカタクリ畑の花と同じ色だ。慈が勝手に好きなだけで、この色が好きだともこの色の着物を着てほしいとも言ったことはない。それなのに、ずっと望んでいた『早朝落語』で彼はその色を選んでいる。
落語を聞かなければならない。自分もずっと望んできた晴れ舞台だ。演目はなんだと耳を澄ましたところで枕が終わり、新太の声音が変わる。
古典落語ではなかった。慈も一度も聞いたことのないもので、彼の新作落語だと分かる。名古屋に行くまでの作品は全て聞いていたから、慈がいなくなってから書いたものだろう。噺家なら誰もが出演を望む『早朝落語』で、新作をやるなんて博打のようなものだ。それでもハラハラと画面を見つめる慈の前で、新太の落語は淡々と進んでいく。淡々と、いつもの新太らしい笑いを生んでいく。
「……!」
そこでまた慈の心は鷲掴みにされた。新太が効果音のために目の前の床を打つ。その扇子が、慈が贈った願い扇子だったから。特別な日に使うと言ったのは社交辞令だと思っていた。使われなくても彼の部屋にしまわれていれば充分だと。だが彼はこうして大事な舞台で使ってくれる。
録画をしていないからきちんと観なければと思った。彼の表情の一つも見逃したくない。一語一句聞き逃したくないと思うのに、涙が溢れて止まらなくて、拭う間に台詞をいくつか聞き逃してしまう。
それでもやはり彼の落語はいいと思った。まだ彦音に敵わない部分も多いのだろう。だがそんなことは関係なくて、彼の噺には人を惹きつけるものがある。そして落語だけでなく、慈はそんな彼自身にどうしようもなく心奪われている。
新太が手をついて頭を下げて、十五分の番組は終わった。涙が止まらなくて、テレビを消すことも忘れて泣き続けてしまう。
「慈」
ドアの前で呼ぶ声に我に返った。今まで聞いたこともないほど低くて静かな快人の声だ。覚悟はできていたのに振り向くのが怖くて、時間稼ぎのようにリモコンを引き寄せてテレビを消す。
「慈」
「ごめんなさい」
ソファーに近づいた彼に、立ち上がって頭を下げた。
「俺はすぐに忘れろなんて言わない。俺と暮らして普通の恋人をやっていれば、あんな奴のことは忘れられる」
「ごめんなさい」
もう一度言えば、彼が言葉を失う。
「じゃあ、前みたいに奴の追っかけをしながらここに住めばいい。看護師ができなくても、また掃除の仕事をすればいいだろう? 何も問題はない」
らしくなく言い縋る彼に涙が溢れて、それでも曲げられずにしっかりとその顔を見据える。
「俺は出ていきます。今まで沢山迷惑を掛けてごめんなさい。快人さんには本当に感謝しています」
そう言ってまた頭を下げれば、彼はもう何も言わなかった。下げた視線の先に、昨日天井まで上がっていた風船が落ちている。たった一晩だけの心穏やかな時間を思えば苦しい。それでも心を騙しながらは生きていけない。快人がどれほどいい男でも、どれだけ幸せな生活が待っていても、欲しいものは他にある。多分秀助の取り消しラインを見たときから、こうなることは分かっていた。
「馬鹿だよ、慈は」
部屋を出ていく直前、快人がそう呟いた。
覚悟を決めてオープニングに目を遣って、現れた名前に諦めの息が零れた。
『出演 甘茶蔓新太』
その字幕に、きちんと生きようと努力してきた数ヵ月が一度に崩れる。ダメだ。今ならまだ引き返せると分かっていて、画面を消すことができない。
「……っ!」
オープニングの質素な画面が消えて高座の彼を観たとき、息をするのも忘れた。
なんのつもりだ。何故こんなことをするのだと混乱して、漸く戻ってきた呼吸がまた乱れて、ソファーに崩れてしまう。
新太がカタクリ色の着物を着ていた。初めて会ったときのカタクリ畑の花と同じ色だ。慈が勝手に好きなだけで、この色が好きだともこの色の着物を着てほしいとも言ったことはない。それなのに、ずっと望んでいた『早朝落語』で彼はその色を選んでいる。
落語を聞かなければならない。自分もずっと望んできた晴れ舞台だ。演目はなんだと耳を澄ましたところで枕が終わり、新太の声音が変わる。
古典落語ではなかった。慈も一度も聞いたことのないもので、彼の新作落語だと分かる。名古屋に行くまでの作品は全て聞いていたから、慈がいなくなってから書いたものだろう。噺家なら誰もが出演を望む『早朝落語』で、新作をやるなんて博打のようなものだ。それでもハラハラと画面を見つめる慈の前で、新太の落語は淡々と進んでいく。淡々と、いつもの新太らしい笑いを生んでいく。
「……!」
そこでまた慈の心は鷲掴みにされた。新太が効果音のために目の前の床を打つ。その扇子が、慈が贈った願い扇子だったから。特別な日に使うと言ったのは社交辞令だと思っていた。使われなくても彼の部屋にしまわれていれば充分だと。だが彼はこうして大事な舞台で使ってくれる。
録画をしていないからきちんと観なければと思った。彼の表情の一つも見逃したくない。一語一句聞き逃したくないと思うのに、涙が溢れて止まらなくて、拭う間に台詞をいくつか聞き逃してしまう。
それでもやはり彼の落語はいいと思った。まだ彦音に敵わない部分も多いのだろう。だがそんなことは関係なくて、彼の噺には人を惹きつけるものがある。そして落語だけでなく、慈はそんな彼自身にどうしようもなく心奪われている。
新太が手をついて頭を下げて、十五分の番組は終わった。涙が止まらなくて、テレビを消すことも忘れて泣き続けてしまう。
「慈」
ドアの前で呼ぶ声に我に返った。今まで聞いたこともないほど低くて静かな快人の声だ。覚悟はできていたのに振り向くのが怖くて、時間稼ぎのようにリモコンを引き寄せてテレビを消す。
「慈」
「ごめんなさい」
ソファーに近づいた彼に、立ち上がって頭を下げた。
「俺はすぐに忘れろなんて言わない。俺と暮らして普通の恋人をやっていれば、あんな奴のことは忘れられる」
「ごめんなさい」
もう一度言えば、彼が言葉を失う。
「じゃあ、前みたいに奴の追っかけをしながらここに住めばいい。看護師ができなくても、また掃除の仕事をすればいいだろう? 何も問題はない」
らしくなく言い縋る彼に涙が溢れて、それでも曲げられずにしっかりとその顔を見据える。
「俺は出ていきます。今まで沢山迷惑を掛けてごめんなさい。快人さんには本当に感謝しています」
そう言ってまた頭を下げれば、彼はもう何も言わなかった。下げた視線の先に、昨日天井まで上がっていた風船が落ちている。たった一晩だけの心穏やかな時間を思えば苦しい。それでも心を騙しながらは生きていけない。快人がどれほどいい男でも、どれだけ幸せな生活が待っていても、欲しいものは他にある。多分秀助の取り消しラインを見たときから、こうなることは分かっていた。
「馬鹿だよ、慈は」
部屋を出ていく直前、快人がそう呟いた。