カタクリ色の恋噺

 演目が終わり会場が拍手に包まれる。彦音がしっかりとした足取りで舞台袖に戻っていく。
 その瞬間、会場横の入口から誰かが足早に出ていくのを目にした。椅子に座らず壁際で観ていたのだろう。洋服姿だがその後ろ姿には見覚えがある。
「あ……」
「浅井さん」
 思わず追おうとして、その前に彦音の親族に声を掛けられた。
「浅井さん。彦音がお礼を言いたいと言っていますから、どうぞ楽屋へ」
 そう言われて急いで楽屋に向かった。彦音に握手を求められて手を差し出せば、その手をしっかりと握られる。
「あんたを少しは過去から解放してやれたかな」
 その気持ちがありがたかった。
「はい。もっと広い世界が見てみたいって、先生の落語を聞いてそう思いました」
 語彙の少なさに、上手く感動を伝えられない自分がもどかしい。それでも彦音はにこにこと聞いてくれる。礼を言わなければならないのは自分だと、そう思った。
 そうして落語会を終えた翌五月に彦音は亡くなった。苦しむことも病院に入ることもなく、親族が遊びに来ていた日に昼寝を始めて、そのまま穏やかに逝ってしまった。
『浅井慈様。あなたのお陰でとても幸せな日々でした。どうか幸せな人生を生きてください』
 彼に買ったスマートフォンにはそんな言葉が残っていた。メールに下書きをして保存する方法なんて教えていないのに、何故こんなことができたのだろう。どうして慈にそこまで言ってくれるのだろう。親族から手渡されたとき、言葉にならない想いが溢れて、慈は声を上げて泣いた。
 彦音の死を告げれば、快人はお悔やみと慈を気遣う言葉をくれた。不幸な死ではないから、快人とのやりとりで心は少しずつ回復していく。
 彦音のお陰で看護師の仕事への興味も膨らんで、そのことを告げれば電話口の快人が喜んでくれた。大里総合病院は看護師不足だから、いつでも大歓迎だと言ってくれる。
「ついでに俺の恋人にならないか」
 ごく軽い調子で言われた言葉の返事は、とりあえず保留にしておく。
 名古屋に来る前のどうしようもない気持ちは消えていた。誰かを追うことだけでなく、自分の生き方も考えられるようになって、漸く普通の大人になれた気がする。
 親戚たちに多大な感謝をされて、またお墓参りに来ることを約束して、七月に東京に戻ることになった。土曜の昼過ぎの新幹線で慣れた地に帰れば、駅まで車で快人が迎えに来てくれる。
「早く入れ。楽しみすぎて色々準備したんだ」
 そう言われて入った三階の部屋に驚いた。
「これ、快人さんが準備したの?」
 掃除をしてくれていたのか、綺麗なままの部屋には大きな花が飾ってあって、銀色の風船まで浮いている。
「そう。ネットで調べたんだけど、女性が喜びそうなサプライズは沢山載っているのに、男性版はなかなかなくてな。仕方ないから女性版で我慢してもらおうと思って」
 そんな素直すぎる告白に笑ってしまう。
「ありがとう、快人さん。名古屋にいる間もずっと」
 風船を一つ取って抱きしめれば、慈は背中から快人に抱きしめられる。
「お帰り、慈。一人でよく頑張ったな」
 言葉と一緒に顔を寄せられて、自然と目を閉じた。唇が触れて身体の力が抜けた瞬間、風船が離れて天井に上がっていく。
「好きだ、慈。もうどこにも行かないでほしい」
「快人さん……」
 まっすぐな言葉をくれる彼を、慈も確かに愛しいと思った。
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