カタクリ色の恋噺

 彦音は自分のことだけでなく、慈の話も聞きたがった。新太のために資格を取っただけのペーパー看護師なのだと白状すれば、家政婦が来ている時間は近くの診療所の手伝いに行くことを勧めてくれる。
 彦音の古くからの知り合いだという医師は、事情を深く聞くことなく慈を使ってくれた。できることとできないことを見極めて、適切な指導をしてくれる。還暦の彼とパートの看護師しかいないような診療所で、慈は重宝された。血圧を測ることくらいしかできないと思ってきたが、二年の看護学校生活は伊達ではなくて、自分でも意外なほど身体が覚えている。何度か練習をさせてもらえば、点滴も注射もできるようになった。元々手先は器用だから、ベッドメイキングや診療器具の手入れは難なく熟せてしまう。
 往診がメインでほとんど患者はこないような診療所だが、時々やってくる患者は若い慈を見つけてみな褒めてくれた。いい子が来てくれたねと言われるのを聞けばやはり嬉しくて、もっと力をつけたいという思いに変わる。
 家に帰って彦音に話せば、彼は目を細めて喜んでくれた。母子家庭で親族との縁も薄かった慈にとって彦音は祖父のように思えて、少しでも長く傍にいてほしいと思う。
 年末から呼吸機能が弱くなった彦音は、鼻カニューレの在宅酸素療法が必要になって、慈は診療所の手伝いを減らしてできるだけ彼の傍にいた。機械を使っていても動き回ることはできるが、入浴や着替えは介助が必要になる。その辺りを勉強し直したくて、快人に老人看護の本を送ってほしいと頼めば、本の他に彼のアドバイスがびっしり書かれたメモが送られてきた。快人がついでに送ってくれたお菓子を彦音と家政婦さんに振る舞えば、彦音がまた何かを察したように上機嫌になる。
 そうして冬を越えて桜が咲き始めて、寒い冬よりは彦音の体調もよくなった。四月が彼の誕生日だと聞いて何か欲しいものはないかと聞けば、難易度の高い答えが返ってくる。
「もう一度だけ、お客の前で落語がやりたい」
 珍しく彦音にお願いごとをされて、慈も珍しくやってやろうじゃないかという気になった。全盛期のように大きなホールを満員にすることはできないが、近所の公民館を借りてお客を集めることはできる。小さな町の公民館はすぐに予約を取ることができて、慈はネットで集客をした。ここ何ヵ月も多すぎる給料を貰っているから、それを全部使ってしまっていい。彦音の親族にも協力を頼んで、会場の準備を進める。準備は驚くほどスムーズに進んで、報告するたび彦音に喜んでもらえた。診療所に来る患者にも聞きに来てくれるように話をする。
 そんな充実した二週間を過ごして、翌日が本番という日に彦音が慈に聞いた。
「あんたが新太の演目で一番好きなのはなんだ?」
「え?」
 既に忘れかけていたような名前を出されて戸惑うが、素直に答えるしかなくて、何度も聞いた蕎麦屋の話のタイトルを答える。
「分かった。あんたに名人芸と呼ばれるものを見せてやるよ」
 そう言って一人で寝室に入った彼は、翌日の本番直前にも驚くことを言った。
「この呼吸器を外したい」
 まっすぐ目を見つめて言われて困ってしまった。本番はカニューレの部分を肌色のテープで隠してやる予定だった。呼吸補助の機械だから、外しても息ができない訳ではないが、呼吸機能が弱くなっている彼が演目の間無事で過ごせるか不安で仕方がない。
「最後だから頼むよ」
 重ねて言われて、観客として来ていた診療所の医師にも話をして、苦しくなったらすぐにやめて舞台袖に戻ることを約束して機械を外した。
 そうして五十人ほどの観客が集まり、舞台以外の照明を落として、甘茶蔓彦音の演目が始まる。慈には集中して自分の落語を観せてやってほしいと事前に親族に話があったらしく、演目中の管理は全て他の人間が引き受けてくれていた。何かあったときにすぐに駆け付けられるように前の席に座って、慈は彦音を見つめる。
「今日はお集まりいただきありがとうございます。こんな年寄りのためにやってくるなんて、世の中には暇で物好きな人間が多くいるものだと感心しています」
 そんな冗談で始まった彦音の落語は、やはり素晴らしかった。名人芸を見せてやるという言葉通り、素人の慈さえその実力に当てられるような感覚を味わう。枕から演目に入った瞬間、彼の周りの空気が変わった。大袈裟でなく、雷に打たれたような衝撃だった。新太で何度も聞いた演目だから、台詞はほぼ暗記している。だが彦音のものは新太のものと全く違った。新太の落語で蕎麦屋の店中の人間の顔が想像できるとしたら、彦音の落語は江戸中の様子まで想像させてしまう。自分がこれまでどれだけ狭い世界しか見てこなかったかを、思い知らされた気分だった。
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