カタクリ色の恋噺

『長くなりそうなので電話ではなく手紙にしました。手紙を書くのは久しぶりだから、誤字脱字には目を瞑ってください』
 快人からの手紙はそんな書き出しで始まっていた。
『名古屋での生活はどうですか? 凍えるほど寒いなんてことはないと思いますが、慈は冬が苦手だから少し心配しています。この頃は東京だけでなく名古屋の天気予報も見る習慣がついてしまいました。大雨だと心配してしまいます。もういい大人だけれど、慈はなんだか雨の中をびしょ濡れで歩いていそうで、そんなときはすぐに声を聞きたくなって、自分を戒めるのに苦労しています。
 慈を名古屋に行かせたことは、今でも後悔しています。どうしてもっと護ってやれなかったのか。どうしてもっと早く好きだと言わなかったのか。もっと昔のことを言えば、研修医時代に忙しさに負けて慈に構ってやれなかったことは大きな後悔です。あの頃告白して恋人になっていれば、慈が苦しむ未来はなかったのに。少し傲慢かもしれませんが、そんな風に思います。好きだと言いながら、遠くに行かなければならないほど苦しませたこと、男として反省しています。
 後悔も反省もあるけれど、慈に会いたい気持ちは変わりません。今でも慈が好きです。慈の部屋は今でもそのままにしています。気持ちに区切りがついたら、いつでも帰ってきてください。そして俺の恋人になってください。諦めが悪いと言われようと何度でも言います。俺は慈が好きです。どんな慈でも、過去に何があっても変わらない。三階ではなく、俺が住んでいる一階と二階で仲よく暮らす。そんな日を夢見ながら、明日も仕事を頑張ります。慈も無理をしすぎないように過ごしてください』
 そんな温かな言葉だけを集めた宝物のような手紙を、慈は胸に抱いて目を閉じる。
『快人さんのような頭のいい人間に誤字脱字と言われると、嫌みのように見えて、こちらまで書く言葉に気を遣ってしまいます。おかしな言葉があってもどうか笑わないでください。
 彦音先生も家政婦さんもお医者さんも看護師さんも、みんなびっくりするほどいい人で、心穏やかに過ごしています。それでも東京の知り合いから手紙が来るのは嬉しいです。手紙をありがとうございます。
 ここに来て、まず彦音先生になんと呼べばいいかを聞きました。噺家さんたちは師匠とか兄さんと呼ぶけれど、俺がそう呼ぶのはおこがましい気がして、話し合った結果先生と呼ぶことにしました。彦音先生も新鮮でいいと喜んでくれます。
 ラインで少し話しましたが、俺の仕事のメインは彦音先生の話し相手と落語の聞き役です。それと、先生の身体に何かあったときにすぐに病院に連絡をすること。夜は心配なので近くの部屋で過ごしたいと言うのに、それじゃあんたの気が休まらないから二階で寝ていていいと、先生は譲りません。多少体調が悪くても黙っていることもあるようなので、考えて、この間先生用のスマートフォンを買ってきました。
 俺が買いものに出ているときや、上の階にいるときにも安否確認ができるように、先生に電話とラインの使い方を叩き込みました。意外に先生も楽しんでくれて、前より気軽に俺を呼んでくれるようになりました。夜、「寝たか?」「寝ましたよ」「起きてるじゃないか」と、そんなやりとりをするのが楽しいです。先生は今、兎のスタンプに夢中です。
 先生は何も知らないフリで、俺のことを全部知っています。名人と呼ばれる人間は人格も備わっているのだなと、そんなことを思います。彼の前では嘘が吐けなくて、辛いときは辛いと言うしかありません。でも、そう思うこともだいぶ減ってきたように思います。
 名古屋に来て少し冷静になって、俺も快人さんのことを想います。快人さんには酷いことばかりしてきました。新太さんに奥様への気持ちを告げられたとき、とても苦しい思いをしました。どうして自分にそんな酷いことが言えるのだと、新太さんを恨みました。でも考えてみれば、俺もずっと快人さんに同じことをしていたのですよね。今更ですが、申し訳なくて、どう謝っていいか分かりません。
 今は彦音先生のことを考えるのに精一杯ですが、いつか快人さんに会える日が来るといいと思います。今まで、ちゃんと快人さんにありがとうと伝えたことがなかった。だから顔を見てありがとうと言いたい。それから一度快人さんのために料理をしてみたいです。何故か意地みたいに快人さんの前で料理をするのを避けていたけど、実は俺は料理が上手いんです。今まで快人さんに与えてもらった分を、返していけたらいいと思います。
 当直も呼び出しもあって大変だと思いますが、どうか身体に気をつけて。
 追伸。快人さんからの手紙をポストから出して俺に渡したとき、彦音先生がとても嬉しそうな顔をしてくれました。やっぱり先生は何もかも分かっているみたいです』
 そんなやりとりを繰り返せば、彼への想いが募っていく。
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