カタクリ色の恋噺
名古屋の自宅で静かに暮らす彦音が、看護師として慈を雇いたいと言っているらしい。期間は未定で、彼の家の二階に住んでいいという。そんなあまりにも慈に都合のいい話を、素直に受けてみることにした。
給料もいくらか出してくれると言うし、部屋を探す必要もない。何より、新太の傍を離れる理由ができたことに救われた。慈にも一応プライドがある。いつか恋人になれると思っていたのに、結婚してしまって辛いので離れます、では格好が悪すぎる。彦音は新太の師匠の師匠だから、新太の顔を立てる意味でも断りづらい。そう言えば新太もなんとなく納得してくれる。
納得しなかったのは快人の方だ。俺の傍じゃダメか? 辛いなら仕事もしなくていいから、ずっと俺の部屋にいればいい。ずっと護るからと、ありがたい言葉をいくつもくれたが、慈はそのどれもに首を振った。
彼と寝てみて分かった。どれだけ優しくされても、失恋の傷が癒えることはない。右肩の酷い怪我を見ないようにして、左肩に心地いいマッサージを受けている感じ、というのは失礼すぎるだろうが、本当にそんな気持ちだった。
結局電話もラインも手紙も、快人が好きなだけ連絡をしていいという条件で許してもらった。いつ戻ってきてもいいように、慈の部屋はそのままにしておくという言葉にも折れて、慈の名古屋行きが決まる。
何度か訪ねて顔合わせをして、十月から彦音の住まいに移り住むことになった。
七六歳になる彼の家は想像していたような日本家屋ではなく、コンクリートの三階建てで、数年前に内部のバリアフリー工事も終えていた。庭も然程広くはなくて、機能的という言葉がしっくりくる建物だ。だが暑さ寒さに苦しまない冷暖房機能と、彦音が家中好きに歩き回れる設計には感心した。細やかな庭に植えられたナナカマドがちょうど赤い実をつけていて、彼のセンスを感じる。
「ああ。よく来たね。これからしばらく世話になるから、よろしく」
和服姿の彦音は慈が恐縮するくらい歓迎してくれた。引越し当日は彼の娘や姪の家族が集まって一緒に夕食を囲み、翌日から彦音と二人の生活が始まる。
看護師として雇うと言われたが、慈の仕事のメインは彦音の話し相手だった。週に二度往診の医師と看護師がやってくるし、日曜以外は家政婦がやってきて家事を済ませていってくれる。そもそも少し呼吸器系が弱くなっているというだけで、彦音は自由に動き回れるし、自分のことは自分でできた。
「浅井さん。悪いが一席付き合ってくれないか」
「はい。もちろん」
和室に敷いた座布団に正座をして、彼は時々慈を呼ぶ。少し離れた場所に慈も正座をして、彼の落語に聞き入る。もう観客の前で披露することはないが、こうして誰かの前で落語をやるのは彼の楽しみなのだと知った。叙勲もされた名人の落語を独り占めするなんて、慈にはありがたい以外の何ものでもないが、長年そうしてきた親族には一苦労なのだろう。そんな訳で、彼の落語や昔話を聞いたり、二人でテレビを観たりしながらのんびりと日々を過ごす。
「どうだ。少しは気が楽になったか?」
一度、ついうっかりという様子で彼が言った。その言葉で確信する。彼は新太の結婚で傷ついた慈を立ち直らせるために呼んでくれたのだ。初めて会ったときから彼には全部分かっていた。流石、長く世相を見てきた名人だと思うが、彼は隠しているつもりらしいから、慈も気づかないフリで彼の優しさを受け取る。
「今日は江戸の笑い話を披露しようか」
「はい。待ってました」
彼の話に手を叩きながら、自分も彼に何か返したいと思う。久しぶりに、新太のこと以外で強い気持ちが湧くようになった。
給料もいくらか出してくれると言うし、部屋を探す必要もない。何より、新太の傍を離れる理由ができたことに救われた。慈にも一応プライドがある。いつか恋人になれると思っていたのに、結婚してしまって辛いので離れます、では格好が悪すぎる。彦音は新太の師匠の師匠だから、新太の顔を立てる意味でも断りづらい。そう言えば新太もなんとなく納得してくれる。
納得しなかったのは快人の方だ。俺の傍じゃダメか? 辛いなら仕事もしなくていいから、ずっと俺の部屋にいればいい。ずっと護るからと、ありがたい言葉をいくつもくれたが、慈はそのどれもに首を振った。
彼と寝てみて分かった。どれだけ優しくされても、失恋の傷が癒えることはない。右肩の酷い怪我を見ないようにして、左肩に心地いいマッサージを受けている感じ、というのは失礼すぎるだろうが、本当にそんな気持ちだった。
結局電話もラインも手紙も、快人が好きなだけ連絡をしていいという条件で許してもらった。いつ戻ってきてもいいように、慈の部屋はそのままにしておくという言葉にも折れて、慈の名古屋行きが決まる。
何度か訪ねて顔合わせをして、十月から彦音の住まいに移り住むことになった。
七六歳になる彼の家は想像していたような日本家屋ではなく、コンクリートの三階建てで、数年前に内部のバリアフリー工事も終えていた。庭も然程広くはなくて、機能的という言葉がしっくりくる建物だ。だが暑さ寒さに苦しまない冷暖房機能と、彦音が家中好きに歩き回れる設計には感心した。細やかな庭に植えられたナナカマドがちょうど赤い実をつけていて、彼のセンスを感じる。
「ああ。よく来たね。これからしばらく世話になるから、よろしく」
和服姿の彦音は慈が恐縮するくらい歓迎してくれた。引越し当日は彼の娘や姪の家族が集まって一緒に夕食を囲み、翌日から彦音と二人の生活が始まる。
看護師として雇うと言われたが、慈の仕事のメインは彦音の話し相手だった。週に二度往診の医師と看護師がやってくるし、日曜以外は家政婦がやってきて家事を済ませていってくれる。そもそも少し呼吸器系が弱くなっているというだけで、彦音は自由に動き回れるし、自分のことは自分でできた。
「浅井さん。悪いが一席付き合ってくれないか」
「はい。もちろん」
和室に敷いた座布団に正座をして、彼は時々慈を呼ぶ。少し離れた場所に慈も正座をして、彼の落語に聞き入る。もう観客の前で披露することはないが、こうして誰かの前で落語をやるのは彼の楽しみなのだと知った。叙勲もされた名人の落語を独り占めするなんて、慈にはありがたい以外の何ものでもないが、長年そうしてきた親族には一苦労なのだろう。そんな訳で、彼の落語や昔話を聞いたり、二人でテレビを観たりしながらのんびりと日々を過ごす。
「どうだ。少しは気が楽になったか?」
一度、ついうっかりという様子で彼が言った。その言葉で確信する。彼は新太の結婚で傷ついた慈を立ち直らせるために呼んでくれたのだ。初めて会ったときから彼には全部分かっていた。流石、長く世相を見てきた名人だと思うが、彼は隠しているつもりらしいから、慈も気づかないフリで彼の優しさを受け取る。
「今日は江戸の笑い話を披露しようか」
「はい。待ってました」
彼の話に手を叩きながら、自分も彼に何か返したいと思う。久しぶりに、新太のこと以外で強い気持ちが湧くようになった。