カタクリ色の恋噺
こんなとき、若い女の子ならドキドキしたりするのだろうか。快人のようないい男に好きと言われて、舞い上がったりするのだろうか。
そんなことを思いながら、車でテレビ局に向かった。土曜日。今日は通常のスタジオ収録だ。いつもは新太を拾って二人で向かうが、今日は協会の仕事があるらしくて現地集合だ。ゲストと会う前に少しでも新太と話したかったが、彼も忙しいから仕方がない。今日のゲストは五十代の気さくな師匠で、テレビ慣れした人間だというのが救いだと、いつものコインパーキングで車を降りながら思う。
あれから快人は何事もなかったように接してきた。水曜と木曜は二人で夕飯を食べて、どうでもいい世間話までした。だが当然、それを続けていいとは思っていない。
引越しをする預貯金くらいはあった。だが掃除のアルバイトに借りられる部屋が見つかるかという不安はある。新太の急な呼び出しに応じられる場所でなければならない。駐車場の問題もあって頭が痛い。それでもけじめはつけなければならない。自分は甘い恋愛を夢見る女の子ではない。快人の気持ちに応えることはできないのだ。
いつものように血圧計を持って楽屋に向かえば、事前の資料通りゲストの師匠は明るく楽しい男だった。男性看護師の慈の話を興味深そうに聞いてくれて、慈の方がもてなされている気分になる。あとから新太も挨拶にやってきて、楽しい空気のまま収録がスタートした。これなら然程時間も掛からないだろうという予想通り、いつもは二時間掛かる収録が一時間と少しで終わってしまう。
いつものように新太の着替えを待つつもりでいたが、その日は楽屋に秀助がやってきた。
「浅井さん、お久しぶりです。いつも兄さんがお世話になっております」
「ご無沙汰しています」
屈託のない笑顔を見せる彼に、慈も笑って応じる。
「あ、秀助さん、来月『早朝落語』に出るんですよね。もうオンエアの日は決まっているんですか? 俺、ちゃんと観ますから」
「兄さんの落語を見慣れている浅井さんに観られるのは緊張するな。ダメ出しされそう」
「俺みたいな素人がそんなことする筈がないでしょう?」
そんな雑談をしていたところに、新太が戻ってくる。
「慈、今日もありがとう。師匠が彼はいい子だねって言っていたよ」
楽屋に入ってすぐ、当たり前のように褒めてくれる新太にほっとする。だが着替えを始めた彼から意外な言葉が続いた。
「慈。今日はちょっと相談したいことがあって、秀助の車で帰ることになったんだ。今日はここで解散でいいかな」
「あ、はい。そういうことなら」
内心かなり動揺しているが、秀助もいるところでおかしな顔を見せる訳にはいかなかった。
「じゃあ、また来週よろしくおねがいします」
「うん。またね」
いつもの人懐っこい笑顔で手を振ってくれる新太に頭を下げて、足早にスタジオを後にする。
今までこんなことはなかった。もしかしたら気づかないうちに新太の気に障るようなことをしてしまったのだろうか。いや、さっきありがとうと言った彼の機嫌は悪くなかった。
ぐるぐる考えて、車に乗り込んでもなかなか発車することができない。漸くコインパーキングを出たあとは、車通りの少ない道を選んでのろのろと家に帰った。部屋に戻っても食事をする気になれずにソファーに沈んでしまう。
今日一日だけのことだといい。だが落語界のことを知らない慈には聞かせられない話もあるだろうから、今後はこんなことが増えるだろうか。それでも弟子たちに看護師ができる人間はいないから、番組の手伝いは辞めさせられない筈だ。それでも。
考えるほどに不安が募って、シャワーに立つのも億劫になった。気晴らしにスマートフォンで新太の動画を観てみるが、想いが募ればまた苦しくなって、それも投げ出してしまう。疲れもあってそのままソファーで寝てしまった。目を覚ましたのは四時前だ。
ふと思い出してテレビを点ければ、ちょうど『早朝落語』のオープニングが流れていた。今朝の出演はまだ二ツ目の女性落語家だ。以前何かのテレビで観たような気がする。落語家にしては若くて綺麗だから、新しいファン層を増やしていけるありがたい人材なのだろう。十五分の番組を丸々貰えるくらいだから、そこそこ実力もある。だが新太の落語を聞き慣れた慈には、上手いとは思えなかった。自分が落語を評価できる人間ではないと分かっていて、それでも独特の高い声が不快で、半分も見ないうちにテレビを消してしまう。
そんなことを思いながら、車でテレビ局に向かった。土曜日。今日は通常のスタジオ収録だ。いつもは新太を拾って二人で向かうが、今日は協会の仕事があるらしくて現地集合だ。ゲストと会う前に少しでも新太と話したかったが、彼も忙しいから仕方がない。今日のゲストは五十代の気さくな師匠で、テレビ慣れした人間だというのが救いだと、いつものコインパーキングで車を降りながら思う。
あれから快人は何事もなかったように接してきた。水曜と木曜は二人で夕飯を食べて、どうでもいい世間話までした。だが当然、それを続けていいとは思っていない。
引越しをする預貯金くらいはあった。だが掃除のアルバイトに借りられる部屋が見つかるかという不安はある。新太の急な呼び出しに応じられる場所でなければならない。駐車場の問題もあって頭が痛い。それでもけじめはつけなければならない。自分は甘い恋愛を夢見る女の子ではない。快人の気持ちに応えることはできないのだ。
いつものように血圧計を持って楽屋に向かえば、事前の資料通りゲストの師匠は明るく楽しい男だった。男性看護師の慈の話を興味深そうに聞いてくれて、慈の方がもてなされている気分になる。あとから新太も挨拶にやってきて、楽しい空気のまま収録がスタートした。これなら然程時間も掛からないだろうという予想通り、いつもは二時間掛かる収録が一時間と少しで終わってしまう。
いつものように新太の着替えを待つつもりでいたが、その日は楽屋に秀助がやってきた。
「浅井さん、お久しぶりです。いつも兄さんがお世話になっております」
「ご無沙汰しています」
屈託のない笑顔を見せる彼に、慈も笑って応じる。
「あ、秀助さん、来月『早朝落語』に出るんですよね。もうオンエアの日は決まっているんですか? 俺、ちゃんと観ますから」
「兄さんの落語を見慣れている浅井さんに観られるのは緊張するな。ダメ出しされそう」
「俺みたいな素人がそんなことする筈がないでしょう?」
そんな雑談をしていたところに、新太が戻ってくる。
「慈、今日もありがとう。師匠が彼はいい子だねって言っていたよ」
楽屋に入ってすぐ、当たり前のように褒めてくれる新太にほっとする。だが着替えを始めた彼から意外な言葉が続いた。
「慈。今日はちょっと相談したいことがあって、秀助の車で帰ることになったんだ。今日はここで解散でいいかな」
「あ、はい。そういうことなら」
内心かなり動揺しているが、秀助もいるところでおかしな顔を見せる訳にはいかなかった。
「じゃあ、また来週よろしくおねがいします」
「うん。またね」
いつもの人懐っこい笑顔で手を振ってくれる新太に頭を下げて、足早にスタジオを後にする。
今までこんなことはなかった。もしかしたら気づかないうちに新太の気に障るようなことをしてしまったのだろうか。いや、さっきありがとうと言った彼の機嫌は悪くなかった。
ぐるぐる考えて、車に乗り込んでもなかなか発車することができない。漸くコインパーキングを出たあとは、車通りの少ない道を選んでのろのろと家に帰った。部屋に戻っても食事をする気になれずにソファーに沈んでしまう。
今日一日だけのことだといい。だが落語界のことを知らない慈には聞かせられない話もあるだろうから、今後はこんなことが増えるだろうか。それでも弟子たちに看護師ができる人間はいないから、番組の手伝いは辞めさせられない筈だ。それでも。
考えるほどに不安が募って、シャワーに立つのも億劫になった。気晴らしにスマートフォンで新太の動画を観てみるが、想いが募ればまた苦しくなって、それも投げ出してしまう。疲れもあってそのままソファーで寝てしまった。目を覚ましたのは四時前だ。
ふと思い出してテレビを点ければ、ちょうど『早朝落語』のオープニングが流れていた。今朝の出演はまだ二ツ目の女性落語家だ。以前何かのテレビで観たような気がする。落語家にしては若くて綺麗だから、新しいファン層を増やしていけるありがたい人材なのだろう。十五分の番組を丸々貰えるくらいだから、そこそこ実力もある。だが新太の落語を聞き慣れた慈には、上手いとは思えなかった。自分が落語を評価できる人間ではないと分かっていて、それでも独特の高い声が不快で、半分も見ないうちにテレビを消してしまう。