カタクリ色の恋噺
そう言って渡された小さなお菓子に、ふっと表情を緩める。
「いつもありがとうございます」
「今日こそはレアキャラが出るといいんだけど」
マンション前の外灯に頼る仄暗い空間で、小学生が喜びそうなお菓子を手にして笑う。ねこチョコシリーズという玩具菓子で、以前好きだと言ったら新太がちょくちょく買ってきてくれるようになったのだ。仕種と表情が違う猫のおまけが十種類あって、その他にレアキャラが出ることがあるのだが、慈はまだ普通タイプも五種類しか集められていない。いくつも同じものがダブってしまったりするが、こうして新太が自分のために買ってきてくれるのが嬉しい。たかだか二百円程のお菓子も、彼がくれれば宝物になる。
「じゃあ、またね」
「はい。お休みなさい」
にこにこと笑顔で手を振って帰っていく彼に手を振り返し、建物の中に消えていったところで車をUターンさせた。お菓子を開ける楽しみを支えに、決して近場ではない自宅へまた車を走らせる。
漸く慣れた我が家に辿り着くと、駐車場に車を入れて外階段で三階まで上った。オフィスビルのような鉄扉の玄関を開けて、水銀計が入っているバッグだけを大事に下ろすと、自分はそこに座り込んでしまう。なかなか立ち上がる気になれなくて、そのまま玄関前の廊下に横になってしまった。鉄筋コンクリートのこの部屋は、七月の夜でも然程暑さに苦しむことがない。流石に一日中閉め切っていて蒸し暑くなっているが、玄関前は割と涼しいのだ。リビングまで歩いてエアコンを点けるのも億劫だ。このままここで寝てしまおうか。そう、飲んだくれた酔っ払いのようなことを考える。
「慈」
だがそこで外から控えめに声が掛けられた。夜は驚かせないようにチャイムを鳴らさず、コンコンとドアを叩いてやってきてくれる。そんな優しさを向けてくれるのは、このマンションの所有者で、一、二階に住んでいる大里快人 だ。彼とは子どもの頃からの知り合いで、その縁でこのマンションに住まわせてもらっている。
「慈。帰っているんだろ? この間みたいに朝まで玄関で寝る気じゃないだろうな。起きたら身体中が痛いって、泣き言を言っていたのを忘れたのか?」
眠気に負けそうだった脳も、そこまで言われれば観念せざるを得なかった。酷く緩慢に起き上がって、玄関を開けてやる。そこで自分が鍵も掛けずに寝ようとしていたことに気づいて慌てた。新太と会う日は彼のことに神経を集中させているから、別れたあとよくこんな風になる。
「あの落語家の仕事に行ってきたんだろ? 今日は遅かったな」
「ちょっとトラブルがあって」
「飯は?」
聞かれて初めて、昼から何も食べていないことに気づいた。ということは新太も食べる時間がなかった筈だ。いや、慈が差し入れを買いに行っている間に食べただろうか。何故帰りの車の中で食事の心配をしてあげられなかったのだろうと反省する。
「出たな、慈お得意のフリーズ。まぁ、どうせあの男のことを考えているんだろうけど。で、お前は食べていないんだろ? 腹は減っていないのか?」
「うん。俺は別にいい」
「そうか。じゃあ、腹が減っていなくても食え。こんなことだろうと思って、気の利く俺は夕食を二人分買ってきてやった」
内科医の快人は慈の不摂生が見過ごせないらしい。十一歳年上で慈を弟のように可愛がってくれた彼だから、放っておけないのだろう。時々こうしてやってきて、ほとんど強引に慈に食事をさせて帰っていく。
「入っていいか?」
「大家さんだもん。いいに決まっているでしょう?」
「じゃ、遠慮なく」
大きな紙袋を提げてリビングに向かう彼の背を見ていれば、疲れが引いていく気がした。彼は家族みたいに、傍にいて安心する存在だ。
「今日は何を買ってきてくれたの?」
「スープ専門店のクラムチャウダーとバゲットだな」
「これはまた洒落たものを」
カウンターキッチンにぴたりと寄せる形になっているテーブルで、彼が手早く夕食の準備を始める。もう何度も来ているから、慈が動く前にレンジでスープを温めてくれる。
「洒落たものでも買ってこないと、お前は一日中奴のことが頭から離れないからな。どんな食事が一番落語から遠いかって、仕事以上に頭を使った」
「お医者様の仕事以上に頭を使う訳がないでしょう?」
笑い合って食事を始めれば、漸く普通の空腹を思い出した。快人は凄い。大変な仕事を熟しながら、患者だけでなく、こうして昔馴染の慈の身体まで気遣ってくれる。
「デザートにケーキも買ってきた。お前も付き合え」
「うん」
向かい合って温かな食事をしながら、兄のような存在だが、実際こんないいお兄さんもなかなかいないだろうなと、そう思うのだった。
「いつもありがとうございます」
「今日こそはレアキャラが出るといいんだけど」
マンション前の外灯に頼る仄暗い空間で、小学生が喜びそうなお菓子を手にして笑う。ねこチョコシリーズという玩具菓子で、以前好きだと言ったら新太がちょくちょく買ってきてくれるようになったのだ。仕種と表情が違う猫のおまけが十種類あって、その他にレアキャラが出ることがあるのだが、慈はまだ普通タイプも五種類しか集められていない。いくつも同じものがダブってしまったりするが、こうして新太が自分のために買ってきてくれるのが嬉しい。たかだか二百円程のお菓子も、彼がくれれば宝物になる。
「じゃあ、またね」
「はい。お休みなさい」
にこにこと笑顔で手を振って帰っていく彼に手を振り返し、建物の中に消えていったところで車をUターンさせた。お菓子を開ける楽しみを支えに、決して近場ではない自宅へまた車を走らせる。
漸く慣れた我が家に辿り着くと、駐車場に車を入れて外階段で三階まで上った。オフィスビルのような鉄扉の玄関を開けて、水銀計が入っているバッグだけを大事に下ろすと、自分はそこに座り込んでしまう。なかなか立ち上がる気になれなくて、そのまま玄関前の廊下に横になってしまった。鉄筋コンクリートのこの部屋は、七月の夜でも然程暑さに苦しむことがない。流石に一日中閉め切っていて蒸し暑くなっているが、玄関前は割と涼しいのだ。リビングまで歩いてエアコンを点けるのも億劫だ。このままここで寝てしまおうか。そう、飲んだくれた酔っ払いのようなことを考える。
「慈」
だがそこで外から控えめに声が掛けられた。夜は驚かせないようにチャイムを鳴らさず、コンコンとドアを叩いてやってきてくれる。そんな優しさを向けてくれるのは、このマンションの所有者で、一、二階に住んでいる
「慈。帰っているんだろ? この間みたいに朝まで玄関で寝る気じゃないだろうな。起きたら身体中が痛いって、泣き言を言っていたのを忘れたのか?」
眠気に負けそうだった脳も、そこまで言われれば観念せざるを得なかった。酷く緩慢に起き上がって、玄関を開けてやる。そこで自分が鍵も掛けずに寝ようとしていたことに気づいて慌てた。新太と会う日は彼のことに神経を集中させているから、別れたあとよくこんな風になる。
「あの落語家の仕事に行ってきたんだろ? 今日は遅かったな」
「ちょっとトラブルがあって」
「飯は?」
聞かれて初めて、昼から何も食べていないことに気づいた。ということは新太も食べる時間がなかった筈だ。いや、慈が差し入れを買いに行っている間に食べただろうか。何故帰りの車の中で食事の心配をしてあげられなかったのだろうと反省する。
「出たな、慈お得意のフリーズ。まぁ、どうせあの男のことを考えているんだろうけど。で、お前は食べていないんだろ? 腹は減っていないのか?」
「うん。俺は別にいい」
「そうか。じゃあ、腹が減っていなくても食え。こんなことだろうと思って、気の利く俺は夕食を二人分買ってきてやった」
内科医の快人は慈の不摂生が見過ごせないらしい。十一歳年上で慈を弟のように可愛がってくれた彼だから、放っておけないのだろう。時々こうしてやってきて、ほとんど強引に慈に食事をさせて帰っていく。
「入っていいか?」
「大家さんだもん。いいに決まっているでしょう?」
「じゃ、遠慮なく」
大きな紙袋を提げてリビングに向かう彼の背を見ていれば、疲れが引いていく気がした。彼は家族みたいに、傍にいて安心する存在だ。
「今日は何を買ってきてくれたの?」
「スープ専門店のクラムチャウダーとバゲットだな」
「これはまた洒落たものを」
カウンターキッチンにぴたりと寄せる形になっているテーブルで、彼が手早く夕食の準備を始める。もう何度も来ているから、慈が動く前にレンジでスープを温めてくれる。
「洒落たものでも買ってこないと、お前は一日中奴のことが頭から離れないからな。どんな食事が一番落語から遠いかって、仕事以上に頭を使った」
「お医者様の仕事以上に頭を使う訳がないでしょう?」
笑い合って食事を始めれば、漸く普通の空腹を思い出した。快人は凄い。大変な仕事を熟しながら、患者だけでなく、こうして昔馴染の慈の身体まで気遣ってくれる。
「デザートにケーキも買ってきた。お前も付き合え」
「うん」
向かい合って温かな食事をしながら、兄のような存在だが、実際こんないいお兄さんもなかなかいないだろうなと、そう思うのだった。