カタクリ色の恋噺

 慈が言い返せないように、また彼の手に力が籠もる。
「怒らないで最後まで聞いてほしい。お前はあの男が好きだと言った。でも奴の立場になって考えてみろ。仕事の手伝いと家事をしてもらって、必要なときに呼び出して車を出してもらう。それで給料は月二万円だ。お前なら誰かにそんな扱いできるか? その相手が自分のために苦しい生活をしているんじゃないかって、普通は気を配ってやれるものじゃないか? 例え悪気はなくても、そうやって無自覚に相手の人生を振り回していい筈がないだろう?」
 ごもっともだ。慈なら誰かにそんな生活をさせたりしないし、急な呼び出しのために夜勤をしていると聞いただけで胸が痛くなる。けれどそれが分かっていても、それ以上に突き進みたい想いがあるのだ。
「俺の話も、怒らないで聞いてくれる?」
 彼から手を外して、慈も頭の中で言葉を整理する。
「全部分かっているんだ。どんなに尽くしても、想いは報われないだろうってことも。俺は新太さんにとって、仕事で誰よりも都合のいい存在なんだろうってことも。でも、それでも好きなんだ」
「慈」
 なんとなく、快人から目を逸らして俯く。
「ずっと平凡に生きてきた。勉強も運動も人並みで、なりたい職業も興味があるものもなかったから、休みの日はずっと家で静かにしていた。快人さんが時々遊びに連れていってくれたのは楽しかったけどね」
 そんな慈だから、学校で苛められることはなかったが、特別親しい友人もできなかった。手先が器用だから、クラスの男子生徒の家庭科の課題を手伝う。それでポイントを稼いで、なんとか友達のようなポジションにいる。そんな計算をせずに、誰とでも仲よくなれる人間が羨ましかった。
 そんな慈が新太を知った。ころころと笑う彼に惹かれて、気がつけば恋愛感情で好きになっていた。彼のためなら驚くようなこともできる自分を知って、そんな自分も以前より少し好きになれたのだ。
「新太さんがいなくなったら、俺にはもう楽しいことなんて一つもない。生きている意味が分からない。だから俺は今のままでいい。新太さんに会えるなら、それがどんな理不尽な理由でもいいんだ」
「慈」
 もう一度呼んで、彼が慈の手にまた手を重ねる。考えが違うなら触れていてはいけないと思うのに、引っ込めようとすれば、また強い力で止められる。
「俺じゃダメか?」
 遂に我慢ができなくなったというような言い方だった。
「俺じゃ、お前の生きている意味にはなれないか?」
「……何を、言っているの?」
 意味が分からなかった。分からないがこれ以上聞いてはいけない気がして、立ち上がってソファーから離れてしまう。
「慈、俺は」
「ごめん。聞きたくない」
「諦めて聞け」
 子どもみたいに耳を塞ぐ仕種で背を向けていた慈に近づき、彼が慈の身体を反転させる。
「好きだ」
 正面から目を合わせて、恐れていたことを言われてしまった。
「多分、子どもの頃から好きだった。だいぶ年上だし、男同士だし、昔馴染みのまま仲よく過ごせればいいって思ったこともある。けど、お前があの男に夢中になっているのを見て抑えられなくなった」
「快人さん、待って」
「俺の恋人になってほしい」
 最後まで聞いてしまって、慈は俯くしかなかった。
「俺は慈を都合よく使ったりしない。大事にしたいし、幸せにする自信だってある。だから、あいつじゃなくて俺の傍にいてくれないか?」
 もったいない言葉を、慈はどうしようもない気持ちで聞いている。ああ、そういうことかと思う。仕事の紹介。家賃のいらない部屋。ありがたい夕食。全てに納得がいく。気づいてしまえば、何故こんなに簡単なことが分からなかったのだろうと不思議になってしまう。
「ごめん」
 俯いたまま声を絞り出した。
「すぐに答えを出せとは言わない。お前が満足いくまであいつの近くにいて、もうダメだと思ったとき俺のところに来てくれればいいんだ」
「ごめん」
 気持ちをそのまま言葉にすれば快人を傷つけてしまいそうで、それしか言えなかった。慈が恋人になりたいと思うのは新太だけだ。新太から離れることなど考えられない。
「ゆっくり考えろって。あ、テーブルに置いておいた飯、ちゃんと食べておけよ」
 そう言って去っていこうとする彼に、漸く顔を上げて言葉を向ける。
「俺、出ていくから。すぐには無理だけど、できるだけ早く新しい部屋を見つけるから」
 その言葉に振り向いた彼が、流石に眉を寄せて慈を見る。
「そういうことなら、俺はここにいちゃいけないでしょう?」
「そんなつもりで面倒を見ていた訳じゃない」
「でも」
「慈」
 これ以上言えばまた言い争ってしまうと分かったのだろう。年上の彼が慈の言葉を遮り、身体を抱きよせた。
「恋人になりたいという気持ちだけじゃなく、単にお前の身体が心配なんだよ。例え気持ちに応える気がないとしても、ここにはいていい。前も言っただろ? お前は放っておくとどこかで倒れていそうで心配なんだ」
 慈の頑なな気持ちを解すように、快人が背中を撫でてくれる。委ねられずに身体を固くする慈の気持ちを知ったように、快人がそっと髪を撫で、それからぽんと慈の肩に手を置いて離れていく。
「心配するな。俺は諦めが悪い」
「快人さん」
「また、夕飯を持ってくるから」
 そんな慈を困らせるような言葉を残して、彼は去っていった。
 キッチンテーブルには二人分のお握りやデザートが残されていて、申し訳なさが募る。それでも、今彼を追って一緒に食べようとはどうしても言えない。
 自分はどこまで馬鹿だったのだろう。そう思って、また落ち込んだ。
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