カタクリ色の恋噺
言いながらリビングに手を引いていかれる。作り付けの棚から救急箱を持ってきて、彼がソファーの隣に座って消毒液を取り出す。
「ただの擦り傷だと思うけど、まだ痛むか?」
「もう平気」
医師の彼は傷を診ながら手早く消毒をして、ガーゼで押さえてくれた。
「今夜は顔に水を掛けないようにして風呂に入れ。突然痛み出したり、どこか身体に異変が出たらすぐに俺に連絡する。それは約束だ」
すっかり冷静さを取り戻した彼が言って、救急箱の蓋をパチンと閉める。この救急箱も、あまりにも自分に無頓着な慈のために快人が揃えて置いていったものだ。自分は新太を想うこと以外、何から何まで快人の世話になっている。怪我のせいか、今夜はその事実に落ち込んでしまう。
「飯にするか。全く、お前が驚かすから、玄関に飯の袋を放り投げたままだ」
そう言って救急箱を片付けて玄関に向かう彼に、改めてありがたいと思った。何故自分にそこまでしてくれるのだろう。またそれを不思議に思う。
「ぶちまけていた鞄の中身は拾っておいたけど、後で確認しておけよ」
「あ、ごめん。快人さんにやらせるつもりじゃなかったんだけど」
言われて慌てて駆け寄った。今日は物忘れと失敗のオンパレードだ。
「今更だろ?」
それでも快人は優しいままで、ありがたさを越えて困ってしまった。自分には彼に返せるものなど何もないのに、優しさを受け取る資格があるのだろうか。そこでふと、名古屋のお土産のことを思い出す。お礼には到底足りないが、それでも彼のために買ってきたのだ。
「快人さん、これ。たいしたものじゃないけど」
キッチンから取ってきて手渡せば、受け取った彼が瞬いた。
「ありがとう……って、名古屋? 今度は名古屋に行ってきたのか?」
聞かれて、これもまた失敗だったと気づいた。地名の分からないようなお菓子にすればよかったと思うが、もう後の祭りだ。
「奴と旅行でも行ったのか?」
「そんなんじゃない。いつもの対談番組の手伝いだよ。ゲストが高齢で東京のスタジオまで来られなかったから、出張収録で」
「奴と同じホテルに泊まったんだろ?」
何故快人がそこに拘るのか分からないが、聞かれれば答えるしかない。
「ホテルの部屋は別だよ。新太さんは他のスタッフよりいい部屋に泊まった筈だし。それに行きも帰りも新幹線は別で、新太さんとはそんなに話ができなかった」
慈だって、二人だけの秘密の時間を期待した。だが新太にそんなつもりはなくて、慈との間には笑えるほど何もなかったのだ。
「それでお前は満足なのかよ」
ちゃんと答えたのに、彼は不機嫌なままだった。もう一度ソファーに身体を沈めて、自分を落ち着かせるように天井を見上げて息を吐く。しばらくそうしていて、慈をソファーの隣に手招いた。黙って従えば、彼が言葉を選ぶようにして言う。
「俺は、お前に幸せになってほしいんだよ」
出てきたのはそんな言葉だった。
「今も充分幸せだよ」
「そうじゃなくてな」
もどかしそうに、彼が膝の上の慈の手に触れる。快人の手は慈よりずっと大きくて、慈の両手を片手で包み込んでしまう。
「無理とか意地とかそういうものなしに、手放しで幸せになってほしい」
「俺は……」
反論しようとして、ぎゅっと力を籠めた彼の手に止められた。
「昔、母さんに言われたことがあったんだ。大事にしてあげなさい。ずっと年下の子ども一人護れないようじゃ、碌な男にならないからねって」
慈が保育園の頃の話だ。
「快人さんのお母さん、懐かしいな」
「病院に来ることは減ったけど、まだ健在だぞ。今度会いに行くか?」
そんな言葉を交わせば、二人の間に合ったどうしようもない空気も和らいでいく。
慈の母親は大里総合病院の事務員だった。当時から院長夫人だった快人の母親と仲がよくて、彼女の仕事を手伝うようになった。そんなとき、院長室の隣の部屋で慈の子守をしてくれたのが快人なのだ。
高校生男子に保育園児の世話など面倒以外の何ものでもなかっただろう。だが快人は嫌がらずに慈と遊んでくれた。学校の課題をしていることもあったが、一段落すると本を読んだり、自作の数字パズルをやらせてくれたりと、いいお兄さんだった。
慈が小学生、快人が医学生になった後は、外にも遊びに連れていってもらった。映画館や遊園地は楽しかったけれど、子どもなりに、この人は恋人の女性と遊んだりしないのだろうかと心配したものだ。それでも、彼に遊びに行こうと言われれば、わくわくと楽しみで仕方なかった。
彼の医学生生活後半から研修医時代は流石に会うことはなくなったが、時々電話やメールで近況報告はしていた。その後内科専門医の資格を取って父親の病院に転院した彼が、また二人で遊びに行こうと言ってくれるようになったのだが、ちょうどその頃、慈は夜勤と新太の助手でボロボロの生活をしていたという訳だ。
「俺に弟はいないから分からないかもしれないけど、でも慈は弟よりも大事な存在なんだ。今でもそれは変わらない」
「快人さん」
「だから、辛い思いをしてほしくない」
「ただの擦り傷だと思うけど、まだ痛むか?」
「もう平気」
医師の彼は傷を診ながら手早く消毒をして、ガーゼで押さえてくれた。
「今夜は顔に水を掛けないようにして風呂に入れ。突然痛み出したり、どこか身体に異変が出たらすぐに俺に連絡する。それは約束だ」
すっかり冷静さを取り戻した彼が言って、救急箱の蓋をパチンと閉める。この救急箱も、あまりにも自分に無頓着な慈のために快人が揃えて置いていったものだ。自分は新太を想うこと以外、何から何まで快人の世話になっている。怪我のせいか、今夜はその事実に落ち込んでしまう。
「飯にするか。全く、お前が驚かすから、玄関に飯の袋を放り投げたままだ」
そう言って救急箱を片付けて玄関に向かう彼に、改めてありがたいと思った。何故自分にそこまでしてくれるのだろう。またそれを不思議に思う。
「ぶちまけていた鞄の中身は拾っておいたけど、後で確認しておけよ」
「あ、ごめん。快人さんにやらせるつもりじゃなかったんだけど」
言われて慌てて駆け寄った。今日は物忘れと失敗のオンパレードだ。
「今更だろ?」
それでも快人は優しいままで、ありがたさを越えて困ってしまった。自分には彼に返せるものなど何もないのに、優しさを受け取る資格があるのだろうか。そこでふと、名古屋のお土産のことを思い出す。お礼には到底足りないが、それでも彼のために買ってきたのだ。
「快人さん、これ。たいしたものじゃないけど」
キッチンから取ってきて手渡せば、受け取った彼が瞬いた。
「ありがとう……って、名古屋? 今度は名古屋に行ってきたのか?」
聞かれて、これもまた失敗だったと気づいた。地名の分からないようなお菓子にすればよかったと思うが、もう後の祭りだ。
「奴と旅行でも行ったのか?」
「そんなんじゃない。いつもの対談番組の手伝いだよ。ゲストが高齢で東京のスタジオまで来られなかったから、出張収録で」
「奴と同じホテルに泊まったんだろ?」
何故快人がそこに拘るのか分からないが、聞かれれば答えるしかない。
「ホテルの部屋は別だよ。新太さんは他のスタッフよりいい部屋に泊まった筈だし。それに行きも帰りも新幹線は別で、新太さんとはそんなに話ができなかった」
慈だって、二人だけの秘密の時間を期待した。だが新太にそんなつもりはなくて、慈との間には笑えるほど何もなかったのだ。
「それでお前は満足なのかよ」
ちゃんと答えたのに、彼は不機嫌なままだった。もう一度ソファーに身体を沈めて、自分を落ち着かせるように天井を見上げて息を吐く。しばらくそうしていて、慈をソファーの隣に手招いた。黙って従えば、彼が言葉を選ぶようにして言う。
「俺は、お前に幸せになってほしいんだよ」
出てきたのはそんな言葉だった。
「今も充分幸せだよ」
「そうじゃなくてな」
もどかしそうに、彼が膝の上の慈の手に触れる。快人の手は慈よりずっと大きくて、慈の両手を片手で包み込んでしまう。
「無理とか意地とかそういうものなしに、手放しで幸せになってほしい」
「俺は……」
反論しようとして、ぎゅっと力を籠めた彼の手に止められた。
「昔、母さんに言われたことがあったんだ。大事にしてあげなさい。ずっと年下の子ども一人護れないようじゃ、碌な男にならないからねって」
慈が保育園の頃の話だ。
「快人さんのお母さん、懐かしいな」
「病院に来ることは減ったけど、まだ健在だぞ。今度会いに行くか?」
そんな言葉を交わせば、二人の間に合ったどうしようもない空気も和らいでいく。
慈の母親は大里総合病院の事務員だった。当時から院長夫人だった快人の母親と仲がよくて、彼女の仕事を手伝うようになった。そんなとき、院長室の隣の部屋で慈の子守をしてくれたのが快人なのだ。
高校生男子に保育園児の世話など面倒以外の何ものでもなかっただろう。だが快人は嫌がらずに慈と遊んでくれた。学校の課題をしていることもあったが、一段落すると本を読んだり、自作の数字パズルをやらせてくれたりと、いいお兄さんだった。
慈が小学生、快人が医学生になった後は、外にも遊びに連れていってもらった。映画館や遊園地は楽しかったけれど、子どもなりに、この人は恋人の女性と遊んだりしないのだろうかと心配したものだ。それでも、彼に遊びに行こうと言われれば、わくわくと楽しみで仕方なかった。
彼の医学生生活後半から研修医時代は流石に会うことはなくなったが、時々電話やメールで近況報告はしていた。その後内科専門医の資格を取って父親の病院に転院した彼が、また二人で遊びに行こうと言ってくれるようになったのだが、ちょうどその頃、慈は夜勤と新太の助手でボロボロの生活をしていたという訳だ。
「俺に弟はいないから分からないかもしれないけど、でも慈は弟よりも大事な存在なんだ。今でもそれは変わらない」
「快人さん」
「だから、辛い思いをしてほしくない」